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歴史をひも解くと

  • 2010-11-03 (Wed) 04:48
  • 総合

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 南アフリカはアフリカ大陸にある53か国の一つに過ぎない。この国だけを「特別扱い」するわけにはいかないのだが、とはいえ、アパルトヘイト(人種隔離政策)で白人少数派が多数派の黒人を長く「合法的に」隷属させてきた国であることに加え、金やウラン、ダイヤモンドなどの地下資源に恵まれ、アフリカ一の経済大国でもある。
 南アの歴史を大雑把に紹介すると、南アに最初のヨーロッパ人がやってきたのは1652年で、オランダ人のヤン・ファン・リーベックという人物だった。オランダ人入植者たちは後に加わったフランスのユグノー(カルバン派新教徒)らとともに南端のケープ州にコミュニティーを形成した。彼らは自分たちをアフリカーナーと呼び、オランダ語が独自に変化したアフリカーンス語を話すようになった。
 そこに遅れてやってきたのが英国。国力に勝る彼らはアフリカーナーの人々を内陸部に追いやった。内陸部にはズールーやコザなど黒人部族が住んでおり、英国、アフリカーナー、黒人勢力という三つ巴の対立関係が生まれた。英国が最終的にアフリカーナーとの戦いに勝利し、1910年には英国自治領としての南ア連邦が誕生。しかし、英国の支配を憎悪するアフリカーナーはアパルトヘイトを掲げる国民党に結集し、数の力で政権を奪取し、61年には共和国を設立する。歴代の国民党政権は黒人社会を隷属的位置に永久に封じ込めるため、さまざまな人種差別の悪法を制定していった。黒人が白人の学校で学ぶことや白人居住区に住むこと、白人と結婚することを禁じた法律などだ。アフリカ諸国が60年代以降、次々に独立する中、南アは白人至上主義が生き続けた。
 私がこの国に初めて取材で訪れたのは1987年5月のこと。ネルソン・マンデラ氏はまだ獄中にいたし、彼が率いる現与党の黒人解放組織、アフリカ民族会議(ANC)は非合法化されていた。南アは当時、人口約3,300万人。このうち8割近くが黒人であり、白人は400万人、残りはカラード(混血)やインド系の人々だった。日本人は「名誉白人」の扱いを受けており、時に困惑するような場面に出くわすこともあった。
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 タウンシップ(黒人居住区)と呼ばれていた地区を歩いていたら、乾いた目をした黒人の若者のグループに囲まれ、「あんたは名誉白人だろ。白人と黒人、どっちの味方なんだ?」と詰問されたこと。取材で知り合った黒人男性をヨハネス市内の中華レストランでご馳走していたら、離れたテーブルにいた数人の白人男性からねめつける視線を浴びたこと。
 アパルトヘイトの諸法律は1990年以降、廃止され、ANCも合法化され、1994年4月の初の全人種参加の総選挙では予想通りANCが圧勝し、マンデラ氏が大統領に就任、あれから16年が経過する。ヨハネスや南アの都市部の治安悪化が海外でも知られるのは、南アの民主化後、社会の「上澄み」に属する同胞だけが富裕になる一方、仕事のない多くの黒人は貧困のままで、不満を募らせ犯罪に走るというお決まりの「図式」からだ。
 (写真は上が、ヨハネス市内の通り。下が、野菜や果物を売るマーケット。ジャガイモの一盛りが5ランド=約55円=だった)

Comments:2

tajima 2010-11-04 (Thu) 21:05

那須さん、いよいよ、南アですね。自由な立場での取材報告はいつも生き生きとしていて、読むのが楽しいです。昨日からまた、西都市に行ってきました。
『畜産市長の「口蹄疫」130日の闘い』の出版記念会に300人集まり、熱気に溢れていました。みなさん、少し落ち着いてこられたたみたいです。
那須さんの知り合いという人にもたくさん出会いましたよ。そのことは、お帰りになったときにくわしく。その皆さんにこのブログを見て、と伝えておきました。
それでは、これからあとの旅もお気をつけて。

那須 2010-11-05 (Fri) 00:03

田島さん 
 ありがとうございます。「表現のプロ」の田島さんにそう言っていただくはうれしい限りです。そうですか。出版記念会にそれだけの人が集まり、熱気に満ちていましたか。西都市長は高校時代から「正義感の塊」みたいな人でした。
 南アは今夏です。暑さを覚悟していたのですが、案外と朝夕は涼しく快適です。それでも日中の日差しの強さはさすがで、下着や靴下を洗濯して、朝窓辺に出しておくと、2時間ぐらいで乾きます。実にありがたい。(田島さんは出版社書肆侃侃房の代表で詩人の方です)

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