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アフリカをさるく

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サンキュー、ピーター

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 ヨハネスブルク最後の日はやはりこれをせずにはいられない。ヨハネスでは初のゴルフだ。(ゴルフに興味のない人はご容赦ください)
 幸い、宿にしているリボニアB&Bの近くにゴルフ場があった。例によって電話を入れ、貸しクラブはあるか、ジョギングシューズでプレーさせてくれるか、尋ねた。「OK」というので出かけた。ケニアやナイジェリアに比べ値段は高めだったが、文句は言えない。早速コースに出た。
 月曜日というのにとても混んでいた。自分としてはキャディーをつけてもらい、ゆっくり一人でプレーを楽しみたいと思っていたが、白人の若者4人が順番待ちをしているティーグラウンドに連れていかれ、「今すぐドライバーを打ってくれ。それで、前にいる2人組みと一緒にプレーしてくれ」と言われた。準備運動などもってのほかで、キャディーに渡されたドライバーを振っただよ。当たっただ。野球のゴロのように走っただ。
 自虐的表現はこれくらいにして、フェアウエイにいた二人の黒人男性のグループに加えてもらった。ピーターと名乗った一人は地元の元プロゴルファーで今はレッスンプロとして教えているとか。64歳になると言っていたが、いや、さすがに飛ぶ。パー5はほとんどツーオン。もう一人の男性はピーターに教えてもらっているとかで、こちらはピーター以上に飛ばす。
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 私は多少、恥じ入りながら、そう飛びもしない、左に曲がるばかりのドライバーを打っていた。そうしたら、ピーターが「ショウ、もう少しゆっくり振ったらいい。あんたは自分で考えている以上に上手だ。何年もやっていることはスィングを見れば分かる。ダウンスィングをゆっくりするんだ」とアドバイスしてくれた。
 彼の言う通り、気持ちを落ち着け、ゆっくりクラブを振り下ろしたら、あれ、真っ直ぐ、しかも結構距離も出るではないか。ピーターからは「それがゴルフ・スィングだ」とほめられた。それからはドライバーだけでなく、アイアンもよくなり、その後はパーが三つ、ボギーをいくつかで自分としては久しぶりにいいプレーが出来た。
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 いや、これは良かった。自分のゴルフがこれで本当に変わるかもしれない。プレーを楽しんだ後、ピーターに「一杯、ご馳走させてくれ」と言葉をかけ、ゴルフ場をのぞむ、クラブハウスのレストランのテラスでビールを飲みながら、彼が来るのを待った。近くにいたのはほとんどが白人の人々だった。「来る」と言っていたピーターはついに来なかった。周囲にいたのが白人だけで、気後れがしたのか、なんなのか、理由は分からない。急に用事が出来たか、気が変わったのかもしれない。彼に改めてお礼の気持ちを伝えたかったのだが。
 (写真は上から、美しいゴルフ場だった。フェアウエイの向こうにはビジネス街のサントンが見える。一緒にプレーした人たち。途中から一人増えた。一番右がレッスンプロのピーター。プレーの後は地元の生ビール。ピーナツはサービスだった)

南ア経済

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 ヨハネスブルクに「南ア人種関係研究所」(SAIRR)というシンクタンクがある。南ア取材ではよくここを訪ねていた。今回の旅でも、このシンクタンクのセミナーが催されていたので、二度ほど足を運んで南アの政治・経済の現状について勉強させてもらった。
 経済に関するセミナーでは4人のエコノミストや大学教授らが卓見を披露。その内の一人、エコノミストのマイク・シュスラー氏の話は門外漢の私にも理解しやすいものだった。金やダイヤモンドなどの地下資源に恵まれ、アフリカ一の経済大国ながら、同氏は南ア経済がいびつであることを税収の面から次のように説明した。
 「南アは狭小な税収基盤にあえぐ国の一つです。人口約5千万人のこの国で納税登録をしている国民は590万人に過ぎません。さらに所得税にせよ法人税にせよ、この内、わずか130万人が税収の75%を担っています」
 シュスラー氏にもう少し話を聞きたくて、ヨハネス郊外ランドバーグにあるオフィスに足を運んだ。
 民主化から16年。南ア経済の一番の問題は何でしょうか。
「この国の成人人口は3200万人。それに対し、従業員を4人以上抱えている会社・商店・工場・事業所の数は30万1千。これでは足りません。どうやって就業の場を増やしていくのか。これが喫緊の課題です。政府は今後10年で500万人の雇用を創出すると言っているが、どうやってそれが可能なのかは明らかにしていません。労組団体も雇用の創出、賃上げの要求をしているが、どうやって可能なのかまでは語れない」
 どこかで、この国は働くよりも社会保障で暮らしていくことを欲する人が多いのが問題だという新聞記事を読んだ記憶があるのですが。
 「わが国の現在の就業者数は1300万人。これに対し、子育て、障害者、年金など何らかの社会保障を受けている人の数は1430万人に上ります。これでは国の財政がやっていけないことは説明するまでもないでしょう。社会保障費に上限を設ける一方、就業者を拡大する必要に迫られている次第です」
 「一つだけ強調して置きたいのですが、南アの大多数の人々は働くことを願っています。ただ、最近は気になる風潮を耳にすることも事実です。例えば、農場などで働いてきた季節労働者が以前のように働くことをいやがる。収入は減っても、ある程度の社会保障を手にできれば、そっちを選択するという風潮です。これはゆゆしき事態と言えます」
 ヨハネスで時々コーヒーを飲んでいたカフェで働くウエイトレスの黒人女性は「あたしの月の稼ぎは3500ランド(約3万9千円)程度。子供が二人いるけど、いい教育を受けさせることだけが夢だよ」と語っていた。こういう人がやる気をなくす社会にしてはいけないし、そうならないことを心から願う。
 (写真は、シュスラー氏。柔らかい表情にしたいから話し続けてと要望したら、こんなユーモラスな仕草をしてくれた。机の上には妻子と一緒の写真。ご家族ですかと尋ねると、そうです、結婚が遅かったもので、子供はまだ3歳ですと微笑んだ)

「エイズは治療できる病気」

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 今月1日が世界エイズデーだったこともあり、このところ、エイズ関連の記事や番組をよく見かける。サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカでエイズが深刻な問題であることは今更言うまでもない。南アもしかりだ。HIV(エイズウイルス)感染率では南アを上回る国はあるが、人口約5千万の大国ゆえ、感染者数で言えば世界一だろう。
 最近発表されたエイズ関連の統計では、この国の推定HIV感染者数は約560万人。15歳から49歳の年齢層の17.8%に当たるという。昨年、エイズで死亡した人は31万4千人。その大半は成人でこの結果195万人が孤児となったと見られている。単純計算で毎日900人近い人がエイズで死亡していることになる。家庭や社会経済の中枢を占める人々がこれだけの割合で死んでいけば、国家としての損失はいかばかりか。
 希望があるとすれば、妊産婦の間での感染率がこの4年ほど、29.2%程度に「安定」してきていること、ARVと呼ばれる抗レトロウイルス薬の治療を受ける人の数が増えてきていることだという。
 クワズールー・ナタール州のダーバンに滞在していた時、郊外にあるヒルクレスト・エイズセンターを訪れた。そこではHIV感染の有無を調べるチェック、感染が判明した人の治療、相談などのほか、感染者が出た家族を経済的に支える活動を展開していた。その中でも印象に残っているのが、センターに集う女性たちが「リトル・トラベラー」という名のビーズの可愛い人形を作っていたことだ。これを持って世界を旅行し、人々にエイズに対する注意を喚起して欲しいという狙いだが、人形の売り上げ自体がセンターで活動する感染者及びその家族に対する大きな支えとなっている。
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 私は「少女趣味」は全くないと思っているが、これらの人形をセンターの売店で目にした時は、買わずにはおれなかった。値段は1個20ランド(約220円)から30ランド。センターで案内してくれたクローディアさんは「可愛いでしょ。すごく人気があるんです。リトル・トラベラーというぐらいですから、“パスポート”と一緒に売っています。インターネットでも購入できます。ぜひ、日本の方にも紹介してください」と語っていた。
 センターがあるクワズールー・ナタール州は南アの中でもHIV感染率が最も高い地区。クローディアさんは「問題なのはエイズに対する偏見です。感染者は恥辱と見なされ、家族や地域から疎まれる。私たちはそうした偏見をなくすことも訴えています。エイズは今やARVなどで治療できる病気(a treatable disease)です。HIVに感染した妊産婦から生まれた赤ちゃんだって健康に育つことができる。我々のセンターに来る感染者の半数以上は絶望の淵から立ち直り、将来の希望を抱いて出て行ってます」とうれしそうに話した。
 「リトル・トラベラー」のホームページのアドレスは次の通り。どうぞご覧あれ。
 http://www.littletraveller.org.za/
 (写真は上から、ヒルクレスト・エイズセンターで売っているリトル・トラベラー。私が購入したリトル・トラベラー。「ワザ・モヤ」はズールー語で「聖霊よ来たれ」の意味)

再びヨハネス

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 ケープタウンから再びヨハネスブルクに戻ってきた。何と言うべきか、ある種の虚脱感に襲われている。ケープタウンは周辺のタウンシップを視野に入れなければ、南アとは別の国だ(とさえ思う)。どこかでヨーロッパの都市のようだと書いたかもしれないが、ヨーロッパなど問題ではない。
 まず、気候が素晴らしい。湿気が少ないから、ほぼ一日中爽快な気分で過ごせる。白い雲がかかっているテーブルマウンテンの眺めはいいし、目を転じれば、大西洋の海が見える。昼下がり、カフェに座って読みかけの本や新聞など読んでいれば、時間を忘れてしまう。正直に言うと、このままずっとケープタウンに居座りたいと思った。日本で仕事が待っているわけでもないし、このアフリカの旅もきちんとした旅程があるわけではない。
 ただ、南アからナイロビに一旦戻るケニア航空の便を来週初めに取ってあり、さすがにこれはお金のこともあるので、無駄にするわけにはいかない。ならば、ぎりぎりまでケープタウンにいようかと考えたほどだった。しかし、ヨハネスでインタビューを予定している人もいたし、やはり、いつまでも「極楽気分」に浸っているわけにはいかない。実際にはない「後ろ髪」を引かれる思いでヨハネスに戻ってきた。
 ヨハネスの人々でも、黒人の人々はケープタウンに行ったことのない人が多いのだろうと思う。海を見たことがないとも表現できる。ヨハネスでよく利用しているタクシー運転手のモーゼス氏はしきりにケープタウンのことを聞きたがった。「そうか。良かったか。俺の妹は結婚してケープタウンに住んでいるが、俺はまだ一度も行ったことがない。妹はヨハネスに戻りたいなどと言ったことがないから、いいところなのだろう。一度は行ってみたいと思っているんだ」と空港からホテルへの道すがら話していた。
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 南ア滞在も残り少なくなってきたので、本日夜、ソウェトに住んでいるズング夫人をホテルに近いレストランに招いて一緒に食事した。「ナス、ケープタウンはそんなに良かったか。あたしはいい思い出はないけどね」と彼女は興味なさそうに応じた。すっかり忘れていた。彼女は夫のモファットが獄中にあった1970年代末から80年代にかけ、毎月ケープタウンに行き、沖に浮かぶロベン島の刑務所に収容されていたモファットを訪ねていたのだ。
 食事の途中から、モファットの昔の同僚、ウイリー氏も加わった。ソウェタン紙のデスクをしている彼は私が同紙にモファットの消息を尋ねた時、電話口に出てくれた人だ。彼自身もかつては白人政権から反政府活動に従事しているとしてモファットとともに投獄されたことがある。私より2歳年長の彼とは初対面だったが、長年の知り合いでもあるかのように話に花が咲いた。ズング夫人はレストランの食べ物の値段が高過ぎるとぼやくことしきりだったが。
 (写真は上が、ケープタウン中心部のグリーンマーケット広場。観光客がカメラを見える形でぶら下げて歩けるのもこの都市ぐらいかもしれない。ズング夫人とウイリー氏)

カラード(混血)

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 ケープタウンで夕刊紙の「ケープ・アーガス」を訪ねた。編集局長とのインタビューを取り付けていた。編集局長室に案内されていささか驚いた。あまりに若々しい人だったからだ。ハサント・アバダー氏。年齢を尋ねると32歳だという。私はこの年齢の時、新聞社の国際部で一番下っ端の記者として忙しく(忙しそうに)動き回っていた。
 私の口から出た最初の質問は失礼ながら、「今の要職にはどういう経緯でおつきになったのですか」というものだった。
 「私はケープタウンで育ちました。先祖は植民地時代に東南アジアから奴隷として連れて来られました。アパルトヘイト(人種隔離政策)の人種区分で言えば、カラードのグループに属します」とアバダー氏は語り始めた。ケープ・アーガスは1857年の創刊の新聞。「私のような者がこの新聞の編集局長をしていることなどアパルトヘイトのころには考えられなかったことでしょう」
 アバダー氏はネルソン・マンデラ氏が獄中から釈放され、南アがアパルトヘイトから民主化の道を歩み始める1990年代前半に「エキサイティングな高校時代」を送り、その経験がジャーナリストになることを決意させ、大学でも政治学とともにジャーナリズムを専攻した。「南アには特にこのケープタウンにはまだまだ語られていない話が多々あります。だから、ジャーナリストになりました」
 このブログでしばしば、エスニシティー(民族・部族)のことに触れてきたかと思う。非常に微妙な問題であり、あまりこの種のことにこだわりたくない気持ちはあるのだが、アフリカを考える時、避けて通れない事柄の一つだ。国内で政治的対立が起きた時、一般大衆の怒りが時として自分たちと異なるエスニシティーに対する理不尽な暴力となってきたことは、アフリカの歴史が物語っている。
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 南アのアパルトヘイトはエスニシティーを否定的にとらえた極論だ。「南アは黒人が多数派」という現実を覆い隠すため、黒人もズールー、コザ、ソト族など言語や風習の違いに沿って複数のエスニシティーに分類された。インド亜大陸の出身者はアジア人として、東南アジアからの移住者と白人、先住民との混血で誕生した人々はカラードとして区分けされた。
 カラードの人口は現在、白人と大差のない約450万人。ケープタウンがある西ケープ州に限って言えば、黒人を上回る多数派だ。アバダー氏は過去よりも未来志向を強調した。「私の妻は白人です。これもアパルトヘイト時代だったら、(雑婚禁止法で)私は犯罪者だったでしょう。子どもが二人いますが、私は自分の子供たちにカラードの歴史を重荷にするつもりはありません。彼らには南アフリカ人として、アフリカ人として、誇りを持って生きていってもらいたい。この国には希望があります」
 (写真は上から、ケープ・アーガスのアバダー編集局長。ケープタウンにクリスマスシーズン到来を告げる夜の灯りが点灯された。写真を撮ってと元気良く駆け寄ってきた4人の美少女。2人は明らかにカラードの風貌をしている少女だ)

望みなきにしも

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 ケープタウンのホテルで朝の新聞を読んでいて、コラムニストの顔写真と名前に思わず目がとまった。マックス・デュプレ。おや、これはヨハネスブルクのメイル&ガーディアン紙の編集長をしていたデュプレ氏ではないか。
 メイル&ガーディアン紙はアパルトヘイト(人種隔離政策)時代は当時の白人政党・国民党の政策を果敢に批判してきた週刊新聞だった。デュプレ氏が今の政権与党、アフリカ民族会議(ANC)をどう評価しているのかぜひ聞きたいと思った。
 あなたはアパルトヘイト撤廃を訴えてきた。念願のANC政権が誕生してどうですか。
 「アパルトヘイトがなくなったことは喜ばしいし、今も南アフリカが一つの国として存在していることも素晴らしいと思う。ただ、ANCの現政権には裏切られた思いだ。解放闘争時代の理念は地に落ちたと言わざるを得ない」と顔を曇らせながら、デュプレ氏はまくし立てた。「ANCの指導部は大衆を忘れ去ってしまった。自分たちだけが豊かになることを考えているかのようだ。例えば、BEEと呼ばれる黒人経済強化策。その意図するところはいい。ただ、結果的に誕生したのはANCの一握りの関係者が一挙に億万長者になっただけのことで、タウンシップ(黒人居住区)で暮らす人々は置き去りにされたままだ」
 私はケープタウンの快適さとタウンシップの落差を目の当たりにして、誤解を恐れずに言えば、「時限爆弾」のことが頭に浮かびました。
 「まさにその通り。この国では毎年、読み書きが満足にできない約75万人の黒人の若者が教育システムからこぼれ落ち、タウンシップに戻っている。民主化後、ANC政権は白人の教師を追い出した。その後、子供たちを誰が教育するのかまで彼らは考えなかった。満足な教育を受けなかった若者は夢も希望もない。彼らの教育、雇用問題に目を向けないと、我々は時限爆弾とともに生きているようなものだ」
 暗い話ばかりですね。明るい展望はありませんかか?
 「これだけは言っておきたい。私はアフリカーナーの出身だが、南アをこよなく愛する一人だ。希望はある。一つには我々には自由闊達に意見を述べることができる新聞、メディアがあり、批判する人々がいることだ。ANCを新聞で痛烈に批判しているのは黒人の記者たちだ。それと、今、市民社会にこの国を覆うコラプション(汚職・腐敗)に辟易し、行動を起こそうという動きが出始めている。ANC政権はメディアへの統制を強めようとしたが、我々は即座に反対運動を始め、そうした目論見を封じ込んだ」
 望みなきにしもあらずですね?
 「そう。私はいつも言っているんだ。我々は今出来の悪い政府を抱えているが、国家、国民としては素晴らしいと」
 デュプレ氏は来年60歳になる。今は南アの歴史や政治について著作に取り組む一方、市民団体のデモ集会にはプラカードを掲げて参加するなど行動派の知識人だ。
 (写真は、ANC政権への失望感と将来への希望を語るデュプレ氏)

ワインランド

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 旅心をかきたてられる言葉だ。20年以上前にもケープタウンから東の田園地帯に伸びるワインランドを旅したことがあったが、あまり良く覚えてはいない。ホテルにある観光冊子の一つを読むと、半日コースと一日コースがある。半日では物足りないかなと一日コースを選んだ。ガイド会社に支払う料金は680ランド(約7500円)。
 土曜日の朝、ホテルの前まで案内のマイクロバスが来た。私の他には同行の観光客はポルトガル人夫婦とイギリス人女性2人、フランス人男性1人の計5人。ガイド兼運転手は白人の男の人でフリーゾと名乗った。
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 最初に訪れたのはステレンンボッシュにあるワイナリー。冷房の効いたワイン製造所を見学した。案内の女性は「ここでは200ヘクタールのブドウ畑があり、150人の作業員が働いています。ブドウは一つ一つ手で摘みます。ブドウの品質のため夜間から早朝にかけての作業なので作業員はヘッドライトを付けて作業します」などと説明していた。
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 この後、テーブルについて白ワイン、ロゼ、赤ワインの順序でワインテイスティング。私はワインよりもビールか焼酎派だから、ワインの味はあまり関心もないし、知識もない。同行の人々は一口すするたびに「おお、これはいい。さっきのよりリッチな味わいだ」とか「フルーティーな味わいが素敵。私はこっちの方が好きだわ」などと寸評を加えている。負けてなるものか。私も「このワインは軽やかな感じがいい。魚料理に良さそうだ」などとコメントし、5人のうなずくのを見てほっとしたり。
 いや、それにしても、ステレンボッシュからパールにかけてのワインランドはケープタウンを抱えた西ケープ州が豊かな地であることを実感させられた。ブドウ畑の中に上品なゲストハウスが点在する田園風景はここが南アいやアフリカであることを忘れる。
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 ワイナリーやそのレストランで働く黒人やカラード(混血)の人を除けば、お客は圧倒的に白人だった。彼らが裕福な暮らしをしていることは駐車場の車や服装、立ち居振る舞いから容易に推察できる。話している言葉から察して、大半はアフリカーナーと呼ばれる人たちだった。かつてアパルトヘイト(人種隔離政策)を積極的に推進してきたコミュニティーに属する人々だ。同行の人たちも「アフリカに来たとはとても思えない。まるでヨーロッパの豊かな田園地帯にいるみたいだ」と語っていた。
 南アでワイン製造が誕生したのは17世紀後半。フランスから宗教的迫害を受けていたユグノーと呼ばれる人々が移住してきて始まった。ガイドのフリーゾさんは「この一帯だけでワインテイスティングが楽しめるスポットは150以上あります」と話していた。
 ワインランドが外国からの観光客を呼び、輸出ワインが外貨を稼ぎ、南アの経済を活性化させていることは間違いないだろう。南アの人々が広くその恩恵に預かり、ワインランドに対する共通認識を抱いていることを願わざるを得なかった。
 (写真は上から、ワインランドの典型的風景。ワイナリーの見学。ワインテイスティングの前に説明に耳を傾ける。レストランは白人客ばかり。黒人客は一組だけ見かけた)

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