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アフリカをさるく

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5年で2軒から1000軒に

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 ジュバの通りの新聞売り場で数紙の英字新聞を買うことができる。そのうちの一つ、シティズン紙を訪ねた。ホテルからバイク・タクシーの助手席に乗って走ること10分ほど。倉庫のような建物の壁面に ”The Citizen” “South Sudan Independent Daily Founded in 2005” という文字が見えた。ジュバで刊行されるようになって5年になるということか。
 インタビューの相手は編集局長のニアル・ボル氏。受付を通って案内されたのは道路から見えた建物ではなく、そのそばの茅葺の伝統的な小屋の方だった。
 「ジュバは今、世界で最も成長している都市だと思います。私たちがここで編集作業を行うようになって5年たちますが、当時はジュバにはレストランは2軒しかなかった。今はホテルやゲストハウスを含めると食事ができる場所は1000軒を超えたと聞いています」とニアル氏は語り始めた。
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 「私も南部スーダン出身です。ジュバ生まれではありませんが、13歳のころからジュバで学校に通っているので、よく知っています。ジュバの人口ですか。100万人ぐらいでしょうか。ただ、ジュバでは今、ウガンダ、ケニア、エチオピアなど周辺の東アフリカから働きにやって来ている人が多くて、彼らを足した人数の方が南部スーダン人の数より多いはずです」。南部スーダンは東アフリカでは珍しい産油地帯を抱えている。レファレンダム(住民投票)後の発展への期待が仕事を求める人々を吸い寄せているようだ。
 スーダンは国土面積で言えば、アフリカ最大。このため、分割されても南部スーダンは約60万平方キロの国土を有しており、日本の約1・5倍の面積に当たる。人口はネットなどでは850万人と紹介されているが、ニアル氏は「少なくとも1200万人」と語った。
 ニアル氏に南部スーダン独立後の青写真を聞いた。「もちろん地上の楽園ができるわけではありません。コラプション(汚職・腐敗)から無縁でもないでしょう。我々の国は内戦やコラプションを抱えた周辺国に囲まれています。そうした影響を受けないはずがない。それで、私は新聞紙上でも訴えているんです。独立後はここの石油を欧州に輸出するのではなく、周辺国への投資に向けるべきと。周辺国の経済がともに発展することが我々の国の安定につながると思うのです」
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 新聞社に来ているのだから、シティズン紙のことを聞かないわけにはいかない。「2005年にスタートした時には部数3,000でした。今は12,000。記者の数で言えば、4人から33人。33人のうち15人は正社員です。今はハルツームで印刷したものを空輸していますが、中古の印刷機を購入したばかりです。間もなく現地印刷ができるようになります。これからますます部数を増やしていきますよ」とニアル氏は語った。
 (写真は上から、編集局長のニアル氏。右の男性も日本ならかなりの長身なのだが、その人が小柄に見えるほどの大柄な男性だった。シティズン紙。右の小屋のような建物に編集局があった。ジュバ中心部の通りの新聞の売店。英字新聞のほかアラビア語の新聞も並べられていた)

学校は木の下だった㊦

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 前回、スーダンは北部と南部が初めから一緒になるべきでないのに単一の国として独立させられたと書いた。それは以下の理由からだ。
 北部のアラブの民は歴史的に南部の黒人の村々を襲撃、奴隷の「供給地」としていた。欧州列強が奴隷貿易を始める前に、アラブの民は黒人を奴隷としていたのだ。南部の人々はスーダンが独立に向かって歩み始めた時、自分たちも協議の場に参画することを求めた。連邦制など南部としてのアイデンティティーを明確にする独立の道があるからだ。しかし、圧倒的力のある北部社会は南部の意向を無視して単一国家としての独立を選択。宗主国の英国とエジプトは南部の願いを汲み取ることはしなかった。
 私はウイリアム氏の話に耳を傾けながら、前々から聞きたいと思っていた別の素朴な疑問をぶつけた。
 「ケニアやナイジェリアなどでは独立後半世紀たっても未だにエスニック(民族・部族)的なしこりが国作りの足かせになっています。トライバリズム(部族主義)を悪用して権勢拡大を図る指導者さえいる。南部スーダンは大丈夫でしょうか」
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 「我々の社会ではそういう指摘は当たりません」とウイリアム氏は次のように解説した。
 「ここには他の多くのアフリカ諸国と同様、二つの系統の黒人が住んでいます。一つはナイロティックの人々で放牧住民です。もう一つはバンツーの人々で定住農業の住民です。ディンカ族、ヌエル族などナイロティックの人々は外見で分かるように、長身痩躯(そうく)が特徴です。我々南部スーダンの黒人はハルツーム政権が部族の分断を図ろうとする企みとも戦ってきました。これからも我々の和が乱れることはありませんよ」
 ウイリアム氏の言葉が現実を反映していることを願う。ただ、一部で早くも最大部族のディンカ族の人々が主要ポストを牛耳りつつあるとの懸念の声を耳にし始めている。
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 ジュバ空港には毎日、沢山の荷物を抱えた南部出身者が各地から帰還している。ジュバ空港と言っても、老朽化した平屋の建物で到着便の案内が片隅の古い黒板にチョークで走り書きされてる。ここがやがては一国の首都の国際空港となるのだ。皮肉っているのではない。それだけ、ここではこれからのインフラ整備が急がれるということを言いたいのだ。和平協定調停後に再開されたジュバ大学のキャンパスにも足を運んだが、施設はどこも老朽化しており、キャンパスのど真ん中に洗濯物を干した学生寮があり、学生たちは「水道から水が出ない。毎日水の確保が大変」と嘆いていた。
 ウイリアム氏が期待する「女子教育」を充実させる教師たちの大半はこのジュバ大学から輩出されていくはずだ。
 (写真は上から、学校から帰る途中の高校生の男女。学校も部族も異なるが、幼馴染とかで仲が良さそうだった。中心部の通りの側溝。ペットボトルのごみの山だった。これからの町作りの大変さがしのばれた。ジュバ大学のキャンパスの学生寮。洗濯物が干されている光景に、70年代に学生生活を送った私は懐かしささえ覚えた)

学校は木の下だった㊤

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 今回の旅で最初に訪問したナイジェリアでもそうだったが、スーダンも初めから一緒になるべきでない南部地域が住民感情を無視され、宗主国から北部とともに単一の国として独立させられたのがこの国の悲劇を生んだ。スーダンの宗主国は英国とエジプトだった。
 「スーダンが独立したのは1956年。我々南部スーダンの住民は独立当初から北部の圧政に苦しんできました。南部を見てください。半世紀以上経過して満足なインフラ一つさえない」とウイリアム・ジャバカナ氏は語る。SPLAの政治組織、スーダン人民解放運動(SPLM)に身を投じ、銃ではなく、教育で南部スーダンの解放運動に従事してきた人物だ。
 1957年に南部スーダンのワオという地で生まれた。誕生した時、SPLAは存在しなかったが、南部住民は自治を求め、ハルツームのアラブ政権に対して武装闘争を始めており、自宅の近くでは銃弾が飛び交っていた。それで、両親は生まれた赤ん坊にジャバカナと命名した。彼らの言葉で「銃弾」を意味する。赤ん坊は後日、教会でウイリアムという洗礼名を受けるが、両親はジャバカナを赤ん坊の名字として残した。
 「私は恵まれていました。ジュバで高校を卒業した後、エジプト政府の奨学金を得て、カイロの大学で教育学を学ぶことができた。その後、英国で修士課程に進み、1987年それが終わるとエチオピアのアジスアベバに飛び、SPLMに加わりました」
 「この時の同志の多くは今、SPLAで偉くなっています。私は教師が天職です。南部を隷属的位置から解放するのは銃だけでなく、子供たちの教育だと当時考えました。それで、今回の和平が成立するまでずっと南部のブッシュ(茂み)に身を潜めながら、教師の育成、子供たちの教育に当たってきました。木の下が学校でしたから、アンダー・ア・トリー・スクール (Under a Tree School)と呼んでいました。命名が良かったのか、海外の多くの援助団体から支援を受けてやってこれました」
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 南部スーダンで政府軍の攻撃をかいくぐって教育活動に奔走する一方、ナイロビに家庭を築いた。子供は16歳から4歳まで4男1女。和平協定の調印を受け、2007年にジュバに戻り、今は和平協定で出来た南部スーダン自治政府の副大統領の下で働いている。
 「手がけたいのは女子教育の充実です。正直言って、南部スーダンでは女子教育はあまり重視されていません。地方の村々では女の子は13歳にでもなれば嫁に出し、持参金として新郎から牛の100頭を受け取る、その程度の存在として見なされています。我々の社会はこの点ではプリミティブ(原始的)です。だから、独立後は女子教育を積極的に推進していきたい。一人の女の子をしっかり教育することは国全体を豊かにすることだと私は思っています」
 (写真は上が、南部スーダンの国作りの希望を語るウイリアム氏。下が、中心部の露天のカフェで靴磨きで生活費を稼ぐストリートチルドレンの子供たち。カメラを向けると、サービス精神一杯のポーズを取ってくれた)

さすがに暑い

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 初めての特派員に出るころ、国際部のベテランデスクから、現地の「におい」(臭いであれ、匂いであれ)が行間から漂ってくるような原稿を書いて送れ、と激励された記憶がある。そうしたにおいを原色鮮やかなマーケット(市場)の賑わいとか通りの混沌などで何とか伝えようとしたが、いかんせん私にはできようはずがなかった。
 スーダンではにおいよりもまず暑さだ。北部にある首都ハルツームのラマダン(断食月)時期の暑さは後にも先にも経験したことがない。早朝、爽やかな水のシャワーを浴び、8時過ぎにホテルを出て通りに出て5分もすると、再びホテルに取って返すことになる。二度目のシャワーを浴び、外に出て、5分も歩くと、またシャワーを浴びたくなる。仕事にならない。そんな感じだった。
 ジュバはそれほどではない。しかし、南アやナイロビの快適な温度に慣れた身には十分暑い。宿泊しているホテルは平屋のコテッジなので、部屋の温度計は日中35度を表示している。地元の人によると、それでも今は季節で言えば、冬の時期であり、3月から5月の夏に比べれば過ごしやすいという。これを冬と呼ぶとは信じ難い。
 こう書くと、ジュバの暮らしはさぞ大変そうだが、実はなぜかそうでもない。木陰に入るとしのぎやすい。湿度がそれほどでもないのと、微風があるからだろうか。
 午後3時ごろから中心部の広場に面した露天の店で紅茶を飲みながら、しばしたたずんだ。周囲にいるのは地元の黒人の人々ばかりではたから見たら、私の存在はきっと場違いだったに違いない。ひげをはやした風変わりな中国人がいるとでも思われていたことだろう。でも、ここでも自分が招かれざる客でないことは空気で分かる。
 地元の英字紙を読みながら、道行く人々を眺める。白装束のアラブの民が圧倒的多数派のハルツームとは明らかに異なる世界だ。時折ものすごく背の高い男の人が通る。ルワンダのツチ族の人も長身だったが、この日見かけた幾人かの人にも目を見張った。おそらく2メートルを超しているのではないか。駆け寄っていって写真を撮りたい衝動に駆られたが、拒絶されることは分かっている。こういうことが重なるとストレスがたまる。
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 近くのイスに座った人が探していた別の英字紙を手にしている。目が合ったので「その新聞を探していました。読み終わったら、私に売ってください」と頼むと、「いいですよ。お金はいいです。読み終わったら差し上げます」。「それじゃ悪いからお茶をご馳走させてください」と言い、お茶代を払う。1スーダン・ポンド。町の両替屋では100ドル=252ポンドだったから、日本円だと35円程度だろうか。
 広場の木の下では年配の男の人たちがプラスチックのイスに座っておしゃべりをしている。昼日中からそんなに話すことがあるのだろうかと思うぐらい、長々とおしゃべりしている。大きなお世話か。
 (写真は上が、ホテル近くの住宅街で出会った物売りの若者。サッカーボールや懐中電灯などを売っていた。下が、広場の木の下で延々と長話に興じる人々)

ジュバ入り

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 ナイロビから空路、隣国スーダン南部の中心都市ジュバに入った。ここにはスーダンの首都ハルツームから飛んだことがある。1988年か89年ごろのことだ。恥ずかしい話だが、ジュバからどういう記事を書いて送ったのか覚えていない。当時はスーダン人民解放軍(SPLA)が激しい反政府武装闘争を展開していた。飛行機はSPLAの対空砲火を警戒し、きりもみ降下しながらジュバ空港に着陸した。
 SPLAが南部住民の民族自決を求めて1983年に決起したのがいわゆるスーダン内戦だ。北部のイスラム教徒であるアラブ住民に支配され続けてきた南部の非イスラム教徒(一部はキリスト教徒)の黒人の人々が北部に反旗を翻した戦いだ。ひところはアフリカ最長の内戦とよく表現された。この内戦は紆余曲折を経て、2004年に和平が実現、南部に自治政府を置くこと、さらには南部の独立の是非を南部住民にゆだねることなどをうたった包括和平協定(CPA)が調印された。
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 その注目の住民投票が年明けの1月9日に実施されるのを前にジュバを訪れた次第だ。ナイロビ空港を飛び立った飛行機が地上の光景が終始目にできる低空飛行を続けること約1時間30分、ジュバ空港に着陸した。途中の風景は土漠とでも呼びたくなるような乾いた大地の連続だった。空港近くになって初めて民家が見えた。アフリカの中心都市なら当たり前の高層ビルの類は目にしなかったような気がする。
 ジュバへの入国ビザそのものはナイロビにある南部スーダン政府の連絡事務所で取得した。事務所にはSPLAをかつて率いた指導者の故ジョン・ガラン氏の肖像が飾られ、来る住民投票の大切さを「あなたは自分自身の国の中で十分な権利を有していない市民として扱われても構わない方に投票したいと思っているのですか」と語った氏の遺訓が紹介されている。
 さて、ジュバを再訪して最初の印象は町が随分大きくなったというものだ。20年以上も前にはホテルを探すのに一苦労した。外国人が泊まれるようなホテルはただ一軒「ジュバホテル」というのがあった。コテッジ風のわびしい宿で、部屋の水道の蛇口をひねると茶色い水が出てシャワーを浴びることなど考えもしなかった。ホテルのオーナーは毎朝、夜にはおいしいスープを出すと言いながら、最後までそのスープは出てこなかった。
 昔話はともかく、ジュバの電話帳のような本をめくると、今は優に30を超えるホテルがあるようだ。若者がタクシーとして走らせているバイクに同乗して町をざっと見学した。町の人々の顔に結構笑顔が見える。私は初めての町では通りや商店の軒先などにたたずむ人の「笑顔の量」でその町(国)の「幸福度」「治安の良さ」などがある程度分かるのではないかと考えている。あくまで個人的な「物差し」だ。
 人々の笑顔が刻一刻と近づいてきた住民投票ゆえのものなのか。あるいは住民投票を超えた先行きに対する期待感を反映したものなのか。
 (写真は、交差点にあった住民投票までのカウントダウンを告知した塔。日数なら25日、時間なら622時間、分で計算すれば3736分と告知されていた)

男子3日会わざれば

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 私が読売新聞ナイロビ支局に勤務していた時は、同業他社は朝日新聞と共同通信がいた。それぞれの支局に地元出身のアシスタントが働いていて、資料整理や会見のアポ取り付け、取材の補足などの仕事を託していた。(読売新聞の支局は今は南アフリカに移動)
 共同通信にはデニス君がいた。今は軽々しくデニス君などと呼ぶのははばかられる思いがする。この間までケニア国鉄の局長をしていたが、今は首相府のアドバイザーの要職にある人物だからだ。当時は支局の部屋が隣同士だったため、普段からよく顔を合わせていたし、日本の習慣や伝統など彼が興味を覚える事柄について質問されたのを覚えている。
 そういう昔のよしみもあり、今回の旅でナイロビに戻るたびに、連絡を取って落ち合い、話を聞かせてもらった。彼の語る話は非常に心強かった。
 デニス氏は47歳。記者生活を経て、政治の世界に身を投じた。1998年には自らの政治理念に基づき政党を立ち上げた。Liberal Democratic Party (LDP)。日本語にすると「自由民主党」になる。「ケニアでは政治理念に基づく政党はそれまで存在しなかったのです。私が実現したいのは民主主義とグッド・ガバナンス(良い政治)。ケニアやアフリカの多くの国々でまだ定着していないものです」とデニス氏は説く。
 彼が旗揚げしたLDPには当時の野党勢力もその後結集し、2002年の総選挙では野党党首のムワイ・キバキ氏(現大統領)を担いで、1978年以来長期政権の座にあったモイ政権を退陣させる下地になった。「我々はキバキ氏に期待した。しかし、残念ながら政権を奪取した彼は旧態依然のトライバリズム(部族主義)にとらわれ、出身部族のキクユ族主導の政治に走った。目指したグッド・ガバナンスからは程遠かった」とデニス氏は語る。
 彼は3年前にその政治理念を実現するべく、シンクタンクを立ち上げた。Institute for Democracy and Leadership in Africa (IDEA) というNGOだ。「ケニアでは政治思想のない国会議員がまかり通っているのが現実です。悲しいかな、当選後は自分や取り巻きが金持ちになることに奔走している。IDEAではそういう政治家ではなく、これからのアフリカ諸国をしょって立つ見識のある指導者を育てることを目指したい」。IDEAの理念に共鳴する動きはアフリア全土に広がりつつあるという。
 デニス氏はモイ政権の末期には身の危険を感じ、家族から離れ隠れて住んだ経験もある。キバキ政権になると今度は大金を積まれたり、アジアの有力国の大使への任命を打診されたりして「身内」になるよう迫られたが、政治信条を裏切るわけにはいかないと拒絶した。
 「我々がやらなければならないのは有権者に投票によって政治を変えることができるということを教育していくことです。トライバリズムを利して議席を得ようとか政治的優位な立場に立とうとするような政治家は排斥されなければなりません。ケニアの有権者はこのことが段々と理解できるようになっている。私はそう思っています。我々は同時にIDEAの理念を共有する政治家を国民に知らしめる責務があるとも考えています」
 (写真は、ケニアのそしてアフリカの政治を変えたいと語るデニス氏)

メードとの再会

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 再びナイロビ。ベースキャンプのようなものだ。住めば都とはよく言ったもので、昔も今もここに戻って来ると、心が落ち着く。
 ナイロビ特派員時代に住んでいた家に住み込みで働いていたメードとふとしたことで再会することになった。セーラ。20年の歳月が経過しているから、今では40歳代のおばちゃんになっているはずだ。電話をした。受話口から元気のいい声が返ってきた。「ミスター・ナス。懐かしいわ。本当に久しぶり!」といったような感じの言葉が響いてきた。
 「セーラ。元気そうで何より。お茶でも飲もう」と誘って、後日、近くのカフェで待ち合わせた。少し太ったけど、ほとんど変わりのない風貌で、彼女はやってきた。
 「暮らしはどう? 子供たちはどうしている?」
 「まあ、何とかやっています。子供は二人。上の男の子を肺炎で8年前に失った。下の男の子が22歳になるけど、経理の勉強をしていて、この子に希望を託している」と今もメードの仕事をしているセーラは饒舌に話した。雇い主とメードの関係だった昔はこんなに気さくに話すことはなかった。
 日本人に限らないが、アフリカで暮らす外国人は自宅でメードや警備員、庭師といった仕事に地元の人を「薄給」で雇っているケースがほとんどだ。私も当時、セーラのほか数人を日本のレベルから見れば「申し訳ない」お給料で働いてもらっていて、当初は複雑な思いをしないわけではなかった。それが地元の人々の雇用につながっているのではあるが。
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 「セーラ、私は当時、あなたにいくら払っていたのだろうか。覚えているかい?」
 「1500シルから2000シルの間かしら。でも、当時はいいお給料だったわ。だって10シリングあれば、(住み込みの)家から町までバスで出て、チップス(ポテト)を食べて、それでまたバスで帰ってこれてたもの。今はそういう風にはとてもいかない」
 こう言われて、正直、少しほっとした気分にはなったが、それでも、彼女たちが今も苦しい生活を余儀なくされていることに変わりはない。ケニアの通貨、シリング(シル)は私がいた当時は1シル=10円の価値があった。今は、ほとんど、1シル=1円に近い感じだ。地元紙が当時、一部3シルだったのが、今は40シル。物価はざっと10倍以上になっている。セーラのような一般大衆の稼ぎはそれに見合って上がっていない。
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 私の旅も残り少なくなったので、日本から持参した品々で不用になったものを彼女に上げようという考えがあった。別れ際にそうした不用品に加え、ささやかな額のお金を手渡した。「サンキュー、ミスター・ナス。クリスマスに田舎に住んでいる母にお土産を買って帰れるわ」と彼女はとても喜んでくれた。私にはこんなことをしている「余裕」など本当はないのだが・・・。
 (写真は上から、再会を喜んでくれたセーラ。12月12日はケニアの独立記念日。お祝いの式典が催された会場でこの写真を撮った直後に、警備担当者に外に出るよう求められた。招待客でないので仕方ない。会場の外でお祝いの記念撮影をする人々)

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