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アフリカをさるく

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ハインド夫妻

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 ロルダイガ農場の歴史を説明しなければならないかとも思う。以下はお世話してもらっている文美さんから聞いた話を簡略にまとめたものだ。
 農場の創設者は英国人のハーリー・ダグラス・ハインド氏。1901年生まれ。英ケンブリッジ大卒後、ニュージーランドの大学で農業を学び、英国が植民地にしていたケニアに渡航。世界大恐慌前の27年に英政府からロルダイガの土地を借り受け、農場を開いた。妻のセシル夫人は1904年生まれ。ケンブリッジ大の学生時代にハインド氏と知り合い、結婚後、ロルダイガ農場で新生活を始める。
 ハインド氏が農場を開いた当時はまだ、ケニアの黒人社会で本格的な反英闘争は起きていなかったが、50年代に入ると、キクユ族の人々を中心とする人々がマウマウ団と呼ばれる反英武装組織を結成。当初は土地奪還闘争だったが、後に独立運動に発展していった。ロルダイガ農場にもマウマウ団の襲撃に備えたお城の篭城塔のような砦が残っている。
 ハインド夫妻はそうした歴史にもまれながら、ケニア独立後も農場を経営。降雨量が年間500ミリに満たない乾いた大地が延々と続くロルダイガでは農場経営は至難の事業だったことは容易に想像できる。牛車とシャベルで土を掘り起こして雨水をためるダムを作り、潅木や藪を切り開いて家畜が食べる草を育てていった。
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 ハインド氏は牛の品種改良の腕で知られ、特にボラン牛では数々の優れた種を作り出した。ハインド氏が1978年に死去したのを受け、夫妻の孫に当たるロバートさんが3年後にその跡を継いだ。文美さんは野生動物の研究で農場を訪れたのが縁でロバートさんと出会い、91年に結婚した。
 ハインド夫妻が質素な生活をしていたことは今も当時のままに残る家からうかがえる。暖炉の煙でいぶされたふきねけの屋根は黒光りしている。本棚には背表紙に歴史が刻まれた書籍が並ぶ。セシル夫人が93年に死去後、文美さんたちはこの母家に移った。文美さんは「私はセシル夫人の晩年の4年間を一緒に過ごすことができました。きっぷのいい素敵な女性で、昔の話をよく聞かせてもらいました。当時飼っていた豚が病気で全滅して、彼女は豚の体重を量る仕事をしていたのですが、その後はハインド家にやって来るお客さんの体重を豚の仕事で使っていた体重計で量り、お客さんが必ず来た時より太って帰るようにした話などを笑って語ってくれました」と振り返る。
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 夫妻がかつて住んでいた家は今は発電機などで電力があり、井戸を汲み上げた水道水もある。当時は今では考えられないような生活だったのだろう。「セシル夫人は土曜日の夜に限り、ご主人と一瓶のビールを分け合って飲んでいたそうです。ロルダイガの自然が野生動物とともに残り、今があるのは夫妻のような方たちがいたからだと思います」
 (写真は上から、ロルダイガ農場の高台から周辺の高原を望む。右手向こうは雨が降っているのが分かる。ハインド夫妻が眠る墓地。ここからの眺めも素晴らしい。ハインド夫妻が住んでいた家の居間。壁の野生動物のはく製にも歳月を感じる)

ラクダみたいなボラン

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 ロルダイガ農場2日目。午前5時過ぎに小鳥の(と思しき)鳴き声で目覚める。外はまだ薄暗い。6時過ぎに起床して洗面。肌寒い。温度計で確認すると12度。ほどなくすがすがしい朝が到来し、日中になると汗ばむ陽気となり、夕刻はまた心地良い涼気に包まれる。文美さんが昨日言っていた言葉を思い出す。「ここは一日に春夏秋冬の四季がやって来るんですよ」。ごもっとも。
 農場の総面積は5万エーカー。私はこのエーカーとかアールはいつまでたってもぴんと来ない。ほぼ2万ヘクタールに相当というから、100メートルかける100メートルの1万平米(1ヘクタール)の土地が2万個あることになる。とここまで「翻訳」すると、私のアナログ頭脳はその土地の広大さを少し理解できる。
 大雑把に言うと、農場では140人の従業員が働いており、牛3千頭、羊2千匹、ラクダ160頭の飼育に当たっている。この日は牛の「薬浴」の作業日だというので、見学させてもらった。牛の体についている病原菌のダニを薬剤の入った狭いプールに一頭一頭追いやり、消毒するのだ。
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 ここの牛の主力は肉牛でボランと呼ばれる種。頭部やあごのしたに脂肪の塊が付いているのが特徴だ。牡牛に至っては私にはラクダのようにさえ見えた。牧童の人たちが棒切れで牛を入り口に誘導する。ざぶん、ざぶん。牛たちは水しぶきを上げながら、首だけ水の上に出して、プールを泳いで(駆け抜けて)行く。
 昨日車窓から見た池にも連れて行ってもらった。ゼブラが近くにいたが、私たちの姿を認めると、それ以上水場に近寄って来ない。木々の間に身を潜めてみたが、効果なし。
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 ロルダイガ農場には大小104の池がある。ダムにして雨水をためた池で、もともとは家畜のために造られたのだが、当然、象やキリン、ゼブラ、ガゼルなどの野生動物にとっても貴重な飲み水源となっている。「実は牛が水を飲んでいると、象などの動物は近づいて来ません。牛が飲み終わると、象の番なんです。自然界のルールがここでは出来上がっているかのようです」という文美さんの説明を興味深く聞いた。「それはライオンやヒョウなどにもある程度言えます。彼らが放牧中の家畜を襲うことはまれです。まるで日中は人間と家畜のための世界、夜間は野生動物のための世界という了解があるみたい」
 牛や羊を夜間、木材やパイプなどで囲って野生動物から守る場所を「ボーマ」と呼ぶことも初めて知った。ロルダイガ農場ではボーマを一週間程度で移動させる。ボーマの跡地に残された家畜の糞がやがて新たな草を育て、それが家畜だけでなく野生動物の食料となるからだ。
 ロルダイガ農場が「家畜と野生動物そして人間が共生する」ことを目指していることが分かる。
 (写真は上から、「薬浴」を受ける牛たち。ボランと呼ばれる牛の中でも一際風格が漂う牡牛。頭部の脂肪の塊は体温調節に大切な役目を担っている。ゼブラとグランツガゼルの小さな群れ。これ以上近づくと逃げて行く)

ロルダイガ農場

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 私は今、ナイロビを離れ、ケニア山のふもと、ナニュキという町の近くにあるロルダイガという農場にいる。日本では考えられないぜいたくな気分を味わっている。周囲にあるのは手付かずの自然。いや、正確には牛や羊などの家畜と象やライオン、キリンなどの野生動物が共生する自然だ。農場経営者が営むコテッジでの滞在はかつてテレビで見た「大草原の中の小さな家」のイメージに近い。
 ナイロビの国内線用のウイルソン空港を12人乗りの小型双発プロペラ機で出たのが午前8時。どこでも好きな所に座れと言うので、パイロットの隣の副操縦席でもいいかと尋ねると、OKとのこと。複雑な計器を見やりながら、シートベルトを締め、自然と笑みがこぼれてしまう。高所恐怖症のくせにこの手の小型飛行機は嫌いではない。はたで見ていると、これなら自分でも運転(操縦)できるのではと不遜にも思ってしまう。
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 眼下には緑の大地が広がる。ケニアのこの一帯は土地も肥沃なのだろう。先週ジュバへの旅で見た光景とは異なる。ほどなくパイロットのお兄さんが「ほらあれがケニア山だ」と右前方の「突起物」を指し示す。先ほどから気になっていた突起物だ。ケニア山だとは思わなかった。ケニア山はアフリカでキリマンジャロ山に次いで高い山で、最高峰は標高5199メートルもある。左右に緩やかな裾野があるこの突起物がケニア山だとは信じ難い。頂上近くは氷河か万年雪か白く光っているのが見える。なぜか、桃源郷という言葉が頭に浮かんだ。
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 ナニュキの空港に到着するまでに二度、草原を切り開き、大地をローラーで踏み固めて造られた滑走路に降り立った。着陸寸前までどこに滑走路があるのか全く分からなかった。コンクリートの滑走路でないため、着陸時の振動、その後の滑走の揺れが何とも言えない。クリスマス休暇を野生動物のサファリで過ごす白人観光客の家族連れが乗り降りしていた。
 大地が緑から乾いた茶色に変わり、三度目に着陸したところがナニュキの空港。ウイルソン空港から直で飛べば30分程度で来れるが、途中で「寄り道」したため、1時間半ほど経過していた。迎えに来てくれた旧知の水谷文美さんと挨拶を交わす。文美さんはケニア在住21年の獣医で人類生態学の専門家でもある。ロルダイガの農場は夫のロバート・ウェルズさんが経営しており、文美さんはライフワークの研究をここで手がけている。
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 見るからに頑丈そうな四駆の軽トラックに乗ってロルダイガ農場に向かう。ナニュキの町を過ぎて1時間近く走っただろうか。警備員がガードする門が見えてきて、文美さんが「ここからが私たちの農場です」と言った。いや、想像はしていたが、それにしても広大な土地だ。目の前をグランツガゼルが通り過ぎる。左手に水をたたえた池が見えてきた。「ここの暮らしで最も大切な水です。ダムにして水を確保しています。時々は象が水を飲みにやって来ているのを見ることもできますよ」と文美さんは語る。
 (写真は上から、小型双発プロペラ機の計器類。出発直後に見られた緑の大地。ケニア山。ロルダイガ農場の中。こんな感じの道を走ってコテッジに着いた)

110歳の生気

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 クリスマス・イブの日中、ナイロビ近くの町に住むキクユ族の友人、ジョージの家を訪ねた。8月に「友との再会」で記した人物だ。別れの挨拶を兼ね、足を運んだ。
 スーパーでチョコレートやお菓子を大量に買い込んだ。何人もいる子供たちのためだ。デジカメに収まっているこれまでに撮影した写真をその子供たちに見せた後、ジョージとしばらく、ケニアの政治について話し合った。彼はケニアの政治に部族の確執が影響していることを憂えていた。曲がったことが嫌いな一本気な男。現在の仕事、牧師に向いていると言えば、言えなくもない。
 お腹一杯ランチをいただいたのと、気持ちのいい微風がほほをなでるので、行儀悪いが失礼してソファーに横になり少し寝入ってしまった。
 目覚めた後、思いつくままにジョージと話していて、そういえば、2003年にナイロビを一週間ほど再訪した時、彼の祖母に会ったことを思い出した。彼女は確か100歳かそこらの高齢の女性だった。あれから7年も経過している。他界されている可能性が高い。「ジョージ、この前ここに来た時、あなたのおばあさんに会ったこと思い出したよ」と言うと、「ああ、そうだった。今も元気だよ。行ってみるかい」と答えるではないか。驚きを隠せぬ私に「1900年生まれだから、110歳になるはず」と続けた。
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 ジョージの家から歩いて20分ほどのところに、そのおばあさんは住んでいる。エリザベス・コイナンゲ。コイナンゲ家はキクユ族の名家で、英国の統治下にあった植民地時代には独立闘争でコイナンゲ家の多くの若者が命を落とした。そのコイナンゲ家のチーフの5番目の妻として迎えられたのがエリザベスさん。ジョージにとっては祖父に当たるチーフはケニアが独立を果たす3年前の1960年、獄中から釈放されて2週間後に79歳でなくなっている。先週の土曜日、没後50年の記念祭を催したばかりだという。
 エリザベスおばあさんは私のことを覚えていてくれた。キクユ語で語る言葉をジョージが通訳してくれた。「よく再訪してくれたね。うれしく思うよ」。「お元気そうですね。日本もお年寄りは沢山いますが、100歳を超えて、しかも110歳でおばあさんのように元気な人は珍しいかもしれない。何が健康の秘訣ですか」「そうだね。あたしは蜂蜜と豆、バナナが好物だよ。神に感謝を捧げて暮らしているし」とこんな感じでおしゃべりをした。
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 別れ際に私が10年後、2020年にまたアフリカ諸国を再訪することを考えていると告げると、エリザベスおばあさんは「そうするといい。私もきっとまだ生きているだろう。ケニアに来たら、またここに立ち寄るんだよ」と細い目を一層細くしながら笑った。握手を交わした彼女の手はふっくらとしていて生気にあふれていた。本当かも・・・。
 (写真は上から、特に懐いてくれた子供たち3人。エリザベスおばあさん(中央)とジョージ。左上部の額に入っているのが、おばあさんが嫁いだチーフ・コイナンゲ。そのチーフ・コイナンゲのお墓。彼には6人の妻がいて、すでに5人の妻たちがそばで眠る。エリザベスおばあさんのお墓は右端に「用意」されているのが見える)

早い者勝ち?

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 ジュバからナイロビに戻って来た。今回の旅で何度目のナイロビか記憶も定かでない。もう改めて書くこともないような気もするが、ケニアにあと1週間余滞在して帰国する予定だから、もう少しお付き合いを。
 ジュバからナイロビへの飛行機便もなかなか考えさせられた。予約していたのはスーダンの航空会社。初めて耳にした会社だったので、スーダン周辺の限られた路線を飛んでいる小さい航空会社なのだろう。出発は正午。国際便の場合はアフリカでも出発の2時間前に空港に着いてチェックインすれば大体問題はない。それで私は午前10時きっかりにジュバ空港に入り、チェックインカウンターに出向いた。ところが、誰もいない。正確には私のような乗客が2人いて右往左往している。事情を聞くと、彼らは私より少し前に着いたが、その時点でカウンターは閉まっていて、職員らしき人はだれもいないのだという。
 冗談でしょ、と思いながら、この二人と一緒に航空会社の事務所を探し出し、そこにいた職員に詰め寄ると、彼は「私は何も知らない。私の仕事はチケットを発行することだ。カウンターが閉まっていたとするなら、すでに乗客で満席になったからだろう。あなた方はもっと早く来るべきだったのだ」と主張、取り付く島もない。これでは予めチケットを予約してもいても何にもならないではないか。first-come, first-served(早い者順、早い者勝ち)の世界だ。
 らちがあかないので、3人で空港の総括責任者のオフィスに押しかけ直談判。彼にとっては管轄外の話であり、本来なら、門前払いを食っても仕方のないことだったのだが、とても紳士的に応対してくれた。名刺までもらった。彼の部下が善後策を探ったところ、幸運にも、この日、南部スーダン自治政府の大統領がハルツームからジュバまで利用したケニアの航空会社の飛行機が駐機しており、これからナイロビに「空で」戻る予定であることが判明。この飛行機に乗せてもらいナイロビに向かうことになった。結局、この便には私たちのような予約済みの客が20人ほど乗り込み、当初の予定の時間よりわずか1時間遅れでナイロビ着となった。
 一悶着の末に、暑いジュバから快適なナイロビに戻って来ると、それだけで得をした気分になる。日差しはきついが、木陰にいる限り、十分涼しい。ケープタウンとまではいかないが、それでも十分心地良い。
 これまではナイロビでは長年の友人の邦人宅に泊まらせてもらっていたが、滞在も残り少なくなったので市内中心部にある中程度のクラスのホテルに投宿することにした。昔はこのホテルの1階部分に「赤坂」という名の日本食レストランがあって、私は昼に夜にお世話になったものだ。定食の味噌汁の味が薄いのでいつも少し醤油をたらして食べたのが懐かしい。今はレストランがあった部分とその周辺はカジノになっており、私にとってはとても「危険極まりない」場所になっている。
 (写真は、さわやかなクリスマス前のナイロビの中心街)

グッドラック、サウス・スーダン!

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 前回紹介した映画の制作者に会えないものかと思っていたら、幸運にも明日にはナイロビに戻るという日に会うことができた。ルリス・ムラさん。1982月6月生まれ、28歳の女性だった。
 彼女が自主制作した映画が南部スーダンの若者に対する力強いメッセージだと思ったという感想を述べると、彼女は「ありがとうございます。そのような意図で制作しました。我々には北部のアラブの人々から奴隷として収奪されてきた歴史がありますが、ここは本来アフリカ全体に大きな影響力を誇った文明を抱えていた地です」と語りだした。
 「エジプトのピラミッドは有名ですが、北部スーダンにはもっと古いピラミッドがあります。我々の祖先はアラブの人々から追い立てられ、南部に移ったのです。南部スーダンはスーダン全土、さらにはアフリカに残る最大の神秘を秘めた地なんです。残念ながら、そうした物語は外部ではほとんど知られていない。私はそうしたものをきちんと発掘していきたい。それが、我々の真実、アイデンティティーとなるからです」
 彼女は現在のスーダンとエジプトがクシュ王国と呼ばれていた紀元前の時代に、政治社会の根本を成していた「マアト」という名の理念を熱を込めて説明してくれた。マアトは当時、正義の女神が象徴していた「真理、本質」であり、私がおぼつかないながらも理解したところでは、死後の世界で神に裁かれる際、心臓と羽が天秤にかけられ、憎しみや恐れなど邪念に駆られた人の心臓は羽と釣り合うことがないので「正体」がばれ、罰せられるとか、そんな話だった。そうした神秘に満ちた物語が(南部)スーダンには海外に知られることなく埋もれているのだという。
 ルリスさんはジュバで生まれ、2歳の時に英国に渡り、大学までずっと英国で教育を受けた。2004年に今回の和平協定が調印される直前に20年ぶりに祖国の土を踏んだ。しかし、9歳ぐらいの少女のころから祖国のために働くことを「使命」のように考えてきたという。祖父の代から南部スーダンの解放闘争に身を投じてきた家柄に育ったことも関係しているのだろうか。「父から南部スーダンの子供たちが飢餓で苦しむ写真を見せられた時の印象が強烈だったのです。ああ、私は何と幸運な星の下に生まれたのだろうと。それなら、いつか帰国して同胞のために働きたいと」
 帰国後、法律の専門家だったこともあり、裁判官の仕事を委嘱された。しかし、どうも自分の考えていたイメージとは異なる。第一、仕事柄、自由に意見を述べることができない。それで思い切って仕事をやめ、映画制作の仕事を選んだ。私が読んだ新聞では南部スーダン初の女優と紹介されていたが、「女優ではありません。映画の制作者です。南部スーダンの人たちに誇りと自覚を与える作品を作っていきたい。それが当面の目標です」
 来年初めにはアフリカの54番目の国家として独立することが確実視されている南部スーダン。彼女のような若い世代が育ってくれば将来は明るい。そうなることを心から願う。
 (写真は、南部スーダンの未来を語るルリスさん)

「南部の伝統に誇りを」

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 ジュバ大学を訪れた際、土曜日夜に独立の是非を問うレファレンダム(住民投票)を祝うコンサートを告知したビラを目にしていた。南部スーダンの歴史にまつわるドキュメンタリーと思われる映画も上映されると記してある。のぞいてみよう。
 ビラにはドア・オープンが5時半、映画の上映開始が9時と記されてあった。きっとコンサートが佳境に入るのは深夜になるのだろう。ジュバでこの二三日よく使っているバイク・タクシーのジェイムズ君も誘った。彼は今年に入り、妻の後を追って出稼ぎにやってきたウガンダ人だ。妻もコンサートに連れていきたいと言うのでOKした。
 その土曜日。午後8時過ぎに行けば十分かと思い、その時間に待ち合わせて車を呼んで出かけた。会場について、野外のコンサート会場であることを知った。時間もあるし、3人とも夕食はまだだったので、売店でチキンとチップスを買って腹ごしらえを済ませた後、会場の広場に。ステージの真ん前にあるテーブルに座り、幕が開くのを待った。昼間はとても暑いが朝夕は気温も下がり、湿度がないからしのぎやすい。
 ジェイムズ、ビールでも飲もう。冷えたタスカー(ケニアのビール)はないかな。(奥さんの)アネット、あなたもいかがですか、といった感じで気分は上々だった。
 ところが、夜9時になっても、まだ始まる気配がない。9時半、全然。10時、まだステージのスピーカーの調整をしている。10時半、スターが到着した気配はない。ジェイムズが言う。「ショウ、アフリカ時間だよ、これが」。「あんたもアフリカ人だろ。なら、これはジュバ時間と呼ぶべきだ」。アネットが「カンパラ(ウガンダの首都)だったら抗議の声がとっくに上がっているわ」と口をはさむ。
 テーブルの前にはタスカーの空き瓶が9本。11時近くなり、もういい加減ホテルに戻ろうかと思い始めたころ、ようやくドキュメンタリー映画の上映が始まった。
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 そんなに期待していなかったが、これが力作だった。南スーダン出身の若い女性が自主制作した小品で、スーダン南部の人々がなぜ北部のアラブの人々との共存ではなく、独立の道を求めなければならなかったのかということが簡潔にまとめられていた。印象に残ったのは彼女がこの映画で伝えたかったのは、かつては北部のアラブの人々から野蛮、未開とさげすまれた祖先の文化、伝統は何ら恥ずべきではく、自分たち若い世代は誇りを持つべきだというメッセージであることがよく理解できたことだった。国作りの根幹は海外の視線が注がれる石油ではなく、多くの人々が生活の糧を得ることができ、また日々の暮らしの礎となる農業であると訴えていることにも共感を覚えた。
 コンサートが佳境に入った午前2時過ぎにホテルに戻った。本日、町で英字紙を買って読んでいたら、上記の映画を制作した女性のインタビュー記事が載っており、彼女は南部スーダン初の女優であることを知った。
 (写真は上から、映画上映の後のコンサートの盛り上がり。残念、この写真は盛り上がっていません。会場の片隅で見かけた南部スーダンの美女三人さん)

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