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アフリカをさるく
オドロケ
- 2011-01-18 (Tue)
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たかだか半年近い「留守」を経ての福岡だが、久しぶりに馴染の店に足を運ぶと、「あら、いらっしゃい。お元気でしたか」という声が迎えてくれる。
先週土曜日は警固本通りにあるモカジャバという店を訪れた。お酒と音楽、おしゃべりを楽しむ店だ。カラオケはなし。ひょんな縁でもう4年ほどたまにのぞいているお店だ。お客の年齢層から言ったら、私など最高齢の層に属しており、東京だったら、ほとんど無縁のお店だろう。
この夜はこの店で働くスタッフのお誕生日の日で盛り上がっていた。初めて会う客もいたが、そこはそこ、長年の知り合いのような感じで楽しく語らっていた。私が行った時は10時を過ぎていたが、ふと気づくと日付が変わっていた。そろそろお暇しようかなと考えていたら、馴染の子が「これからみんな踊りに行きます。那須さんも行きませんか」と言う。「あたしゃ、もう十分、楽しんだよ」と答えようとしたが、座右の銘が「優柔不断」の私のこと、「あら、いや、もう、俺はその・・・」と言いながら、誘われるままに行ってしまった。福岡に詳しい方ならどなたもご存知だが、行ったクラブは親不孝ならぬ親富孝通りにあるお店。いや、アフリカで知り合った連中を連れて行ったら、狂喜乱舞、一晩中踊っているようなビートの効いたお店だった。あたしゃ特段踊るのが趣味ではなく、せいぜい、カラオケのあるスナックで吉幾三の演歌などを歌うのが似合っているのだが、若い女の子から「那須さんも踊ろう」と声をかけられたら、それを断るほど野暮な男ではない。
そういう次第で自分なりに腰をくねらせるわけだが、実はずっと以前から、日本人はもっとステージ(人前)で踊るべきだというのが私の持論である。と偉そうに言うほどのことでもないのだが。日本人は人前で自分を表現するのが苦手な民族ではないかと私は考えている。少人数の食事会でのささやかなテーブルスピーチしかり。聴衆を前にしての意見表明しかり。パーティーでのダンスしかり。我々は人前で自分を「表現」することをあまり奨励されてこなかった。「以心伝心」と言うではないか。
日本国内ではそれでもあまり困らない。しかし、国際社会では「以心伝心」は通じないことがしばしばだ。「沈黙は金」ではない。思っていることは相手に明確に伝えることが必要な場合がほとんどだ。そうでないと、こちらが相手の考えに同意していると誤解される危険性が大だ。議論で相手を打ち負かす、あるいは、少なくともこちらを甘く見るなよというメッセージは伝える必要がある。
アフリカを旅していると、老若男女、彼らは音楽を聞いて、自然と踊り出す、そのリズム感に私は畏敬の念を抱いてきた。今回の旅でもその思いを強くした。見ていてこちらが楽しくなるのだ。
日本にも盆踊りがある。運動会のフォークダンスがある。(中学生のころ、思いを寄せてきた女子の手に触れる時に感じた喜びは私一人ではないだろう)。成人して、あるいは中年になって、もっと必要なのは、実は踊ることかもしれない。カラオケがこんなに隆盛なら、街中に踊ろけ、いや、オドロケがあってもいいのではと思ったりする。
(写真は、南アフリカ・ヨハネスブルクの歓楽街で踊る若者)
「ザ・ビューティフル・ゲーム」
- 2011-01-14 (Fri)
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アフリカの旅で印象に残っていることは多々あるが、スポーツ観戦で言えば、サッカーの面白さを初めて「理解」できるようになったことだろうか。それまではやはり、野球、ゴルフ、大相撲などが中心だった。
アフリカではそれが一変した。テレビで放送しているスポーツが圧倒的にサッカーだったことも一因している。だが、それよりも大きいのは、アフリカではどこに行こうと、英国やスペイン、ドイツなど欧州のプロリーグのゲームをテレビの有料放送でライブで見ることができたことだ。欧州と時差が2、3時間程度しかないことも異なる大陸のゲームをリアルタイムで楽しめる要因だ。欧州で活躍する香川(独ドルトムント)や内田(独シャルケ)など日本人選手をテレビの解説者が「こんなに能力のある選手だとは我々は全然知らなかった」と告白するのを聞くのもうれしかった。
そんなこともあって、昨夜というか本日未明はサッカーのアジア杯、日本対シリア戦を試合終了まで見てしまい、寝不足だ。勝ったから良かった。あれで引き分けで終わっていたら、この原稿を書く気力も失せていたかもしれない。
スペインのバルセロナでプレーしているリオネル・メッシ選手。天才プレーヤーであることは知っていたが、その彼のプレーを何度かホテルやバーのテレビで見た。いや、これは凄い選手だということが良く分かった。バルセロナというチーム自体が素晴らしかった。11月末にトップを争っているライバルのレアル・マドリードと戦った注目の一戦では、試合前の接戦の予想を裏切り、5対0で圧勝した。このゲームでメッシは自らゴールを挙げることはできなかったが、得点に絡む見事なスルーパスを連発。私はテレビの前で感嘆の声を上げていた。2年連続で世界最優秀選手・FIFAバロンドールに選出されたのもむべなるかなだ。
サッカーのことはあまり分からない私にとって、醍醐味を感じるのは、攻めに入った時、複数のプレーヤーが何度もパスをつなぎ、最後にゴールネットを揺らす時だ。お互いにパスがつながらず、0対0で引き分けというゲームは見ていても退屈だ。上記の一戦ではバルセロナは相手のチームにボールを触らせることなく、ゲームの大半を支配していた。各自が自分の役割をわきまえたオーケストラの演奏をピッチで見ているようだった。
アフリカでは仕事を終えた人々が集う食堂兼飲み屋のような場所にも何回か足を運んだが、ゲームが始まるころになると、テレビの前はサッカー好きの常連が陣取っていた。イングランドのプレミアリーグが人気のようで、それぞれがひいきのチームを持っており、賑やかにサッカー談義を繰り広げている。それぞれの国に地元のリーグがあるが、彼らの目はアフリカから多くの黒人選手が活躍している欧州のリーグに注がれているという印象だった。彼らと一緒にテレビを見ていると、決まって何人かが「あんたの好きなチームはどこだ。俺はアーセナルだ。ずっと応援している」などとプレミアリーグのことを独自に解説してくれる。20年前はこういう光景はありえなかった。技術革新と”the beautiful game”とも呼ばれるサッカーは確実に欧州とアフリカの「距離」をますます近くしている。
身辺雑記ですが
- 2011-01-12 (Wed)
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アフリカの旅から帰国して早や一週間が過ぎようとしている。出立前は帰国後は第二の人生に向け、仕事探しに奔走するつもりだったが、帰国した今はだいぶ違うことを考えている。さて、次は何を。そのうちにお話したい。できるかどうかも今は私自身分からないので。当分は「アフリカをさるく」を基にした本を出す仕事に精を出したい、いや出さねばと思っている。
それはさておき、半年近くにわたって「アフリカをさるく」のブログをアップしてきたが、この一週間、パソコンに向かって文章を打ち込むこともなくなり、若干寂しい思いもしてきた。やはり曲がりなりにも31年の長きにわたり、新聞記者稼業にあったゆえか。それでアフリカの旅は終わったが、せっかくこのようなブログが目の前にあるのだから、次のプロジェクト(というほど大層なものでもないが)に着手するまで、この欄を利用して、身辺雑記のあれこれを記すことにした。お時間のある方はお付き合いください。
実は本日、関西からようやく私のホームグラウンドの九州に戻ってきた。新大阪から新幹線に乗り、博多入り。次兄のいる京都では元いた会社の英字新聞部や国際部時代の先輩で今は大学の教壇に立っているO氏と歓談。大阪ではこれも職場は違ったが同じ会社のOBでゴルフの師でもあるS氏に歓待してもらった。そんなこともあり、一週間も関西に「長居」してしまったが、いや、とても寒かった。「常春」のアフリカから秋を経過せずに、厳冬の関西に直行して、虚弱体質の私はもう少しで風邪をひくところであった。
福岡も暖かいわけではないが、関西に比べれば、まだ幾分ましなような気がする。実際、軽くはないキャリーバッグとショルダーバッグを手に博多駅前をうろついたが、寒さはそう感じなかった。体が慣れてきたこともあるのかもしれないが。
関西でうまいものをいただいて、せっかくアフリカで落とした体重があっという間に元に戻った。これはいけない。アフリカでは全然飲めなかった焼酎がいけない。ついつい注文を重ねてしまう。これからしばらくはなるべく酒(焼酎)は控えめにして、著作に向けた読書に励まなくては・・・とこの夕方までは思っていた。とりあえず、簡単に夕食を取ろうと、ホテルの近くの小料理店に入った。そうしたら、カウンターの向こうに焼酎の瓶がずらっと置いてあり、隅の方に「妻」という名の焼酎瓶が見えるではないか。宮崎県西都市出身の者ならすぐに「反応」するだろう。「おお、これはひょっとしたら、郷土の焼酎でないかいな!素通りするわけにはいくまいぞ」と。
お店の大将によると、最近入れた銘柄だそうで、めったに入手できないものだとのこと。そうに違いない。私も初めてこの名の焼酎があることを知ったぐらいだ。ラベルで確認すると、西都市の古くからある酒造場で製造されていた。大将に「妻」というのは西都市の地名、妻という町があるんですよと説明すると、ああ、なるほど、そういうことだったんですか、いや、不思議な名前の焼酎だなと思っていたんですわと合点が行った様子。という次第で私は今夜もほろ酔い気分、明日はまた明日のこころだーーー。なんだか、那須省一ではなく、小沢昭一的なエンディングになってしまった。ウィッ。
ご愛読に感謝
- 2011-01-02 (Sun)
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アフリカ諸国が抱える大きな問題はコラプション(汚職)、バッドガバナンス(お粗末な政治)、ポバティー(貧困)、クライム(犯罪)であることはほぼ誰もが一致するところだ。各地で地元の英字新聞を読んでいて、上記の言葉に加えて、よく目にした言葉に政治指導者のimpunity(不正をしても処罰されないこと)というのがあった。まさにこのイムピュニティーゆえに、アフリカの多くの国々の政治は腐敗にまみれ、それを国民各層がまねてきて現在の窮状を招いている。
そうした現実に憤り、普通の人々の暮らしを良くする政治や社会の実現を願う人々の声を訪れた各国で聞いた。このブログではそうした人々の声を取り上げたつもりである。もちろん、そうした動きが大きなうねりとなるのか予断を許さない。
実際、この最終回の項を書いている今、英BBC放送はなんともやりきれないニュースを報じている。私が訪問したナイジェリアでは、中部の都市でイスラム過激派武装勢力によるキリスト教徒を狙った爆弾テロが発生、その後もキリスト教徒とイスラム教徒の衝突で多数の市民が死亡している。首都アブジャでは政府軍兵士を狙ったと見られる爆弾テロが発生している。同じ西アフリカのコートジボアールでは大統領選で敗退したバグボ前大統領が退陣を拒絶、新大統領支持者との間で一触即発の膠着状態が続いている。我々の常識では考えられないような事態だ。
ケニアでも気になる動きがある。2007年12月の大統領選後の暴動で1100人以上が死亡し、65万人が国内難民となった事件は今年、オランダ・ハーグの国際刑事裁判所(ICC)で暴動を扇動した疑いで閣僚を含む6人が裁かれることになった。だが、人道に対する罪の疑いで名指しされた6人の中には、彼らが属する部族の危機感をあおりケニアがICCから脱退することを求めるなど、醜悪なトライバリズム(部族主義)をむき出しにしている。
とはいえ、コートジボワールのケースでは、アフリカ諸国首脳の集まりであるアフリカ連合(AU)が前大統領に退陣を求め、武力介入も辞さない姿勢を見せるなど、AUの前身、アフリカ統一機構(OAU)の時代には考えられなかった光もある。アフリカにはまた元気なメディアがあり、新聞各紙は政権中枢のコラプションも精力的に報じている。
私が歩いたのはアフリカのほんの一握りの国に過ぎない。駆け足の旅であり、垣間見た程度だが、”a glimmer of hope”(一筋の希望)が見えた旅であったことを願う。
◇
アフリカをさるく旅もようやく大団円。わずか5か月余の短い期間でしたが、無事、帰国の途に就くことができることを幸運に思います。ご愛読ありがとうございました。最後に凝りもせず、楽しかった日々よ(初回の写真と見比べ)ああカミンバック。(旅行中、福岡市内の行きつけの椛島理髪店から頂いた電池バリカンでほぼ3週間おきに散髪。頭がすっきりすると、頭の中まですっきりしたような錯覚に陥りました。多謝)
ナイロビのソマリア人街
- 2011-01-02 (Sun)
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また新しい年がやってきた。また一つ年齢を重ねることになる。もうじたばたする年でもないから矢でも鉄砲でも持って来いの心境だ。亀の甲より年の功とも言うではないか。
アフリカではクリスマスがメーンであるので、正月はあくまで新たな1年の始まりというだけで日本のような厳粛さはないようだ。ケニアではオフィスも2日からは動き出すのが普通だ。今年は2日が日曜に当たるので、3日の月曜から仕事開始となるようだが。
元旦は以前にこのブログでも紹介したナイロビに住んでいるソマリア人青年のアリさん(25)と会う約束にしていた。アフリカを立つ前にもう一度きちんと話を聞きたいと思っていたからだ。ホテルで待ち合わせて、マタツと呼ばれる乗り合いバスに乗り、ナイロビ在住のソマリア人が数多く住むイースリーに向かう。中心部からバスで10分余の近い距離にある町だ。ミニ・モガディシオと呼ばれるほどソマリア人一色に染まった町だ。
私はイースリーの知識は皆無に近い。以前に足を運んだことがあるのかも記憶にない。そのイースリーを訪れて見て複雑な思いをさせられた。町自体は多くの人々が行き交いとても活気があったのだが、都市としての基盤があまりに未整備だったからだ。今や西暦2011年である。町の中心を走る大通り自体がまだ未舗装で、雨が降ったわけではないのに、ひどくぬかるんでいて、通りを横切るのもはばかられた。通り沿いに捨てられたままのごみの量も半端ではなかった。ソマリア難民のコミュニティーゆえに、ナイロビの市当局もほったらかしにしているのではないかと思えさえした。
アリさんによると、イースリーには1990年にソマリア政府が崩壊して、ソマリアが無政府状態になってから、ソマリア人が難民として流れ込んで来たという。「我々はここに来た時、無一文だったのですが、一生懸命に働き、今の町を作り上げました。今、ここに林立するビルはすべてソマリア人が所有する建物です。ホテルもあります。建設中のビルも見えるでしょ」
「イースリーの商店には何でもあります。価格もナイロビ中心部の店の半値です。だから、ケニアの人たちもここに来て買い物をしています。それだけでなくイースリーでは多くのケニア人が働いています」
ヘジャブをかぶったソマリア人女性の集団がゴールドのネックレスやアクセサリーを売っている店もあった。純金だという。値段を尋ねると、重さをデジタル機器で量って計算する。ネックレスは重さ7.4グラムで約2万6千円。ヘジャブ姿の女性たちがきらびやかな商品を前に座している光景を写真に撮ろうとしたが、さすがに断られた。
アリさんはマタツ料金からレストランの食事代まで出そうとした。レストランの食事代だけは何とか払わせてもらったが、お国柄だろうか、日本ではすっかり珍しくなった律儀な青年だった。”Let’s keep in touch.”(連絡を取り合いましょう)と堅く約束して別れた。
(写真は上から、イースリーの町。元旦も閉店している店はなく賑わっていた。大通りでさえこの状態。ソマリア女性は美人が多い。店番をしていた18歳のアヤンさん)
“Back to basics” (原点に戻れ)
- 2011-01-01 (Sat)
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これまでに話を聞いた中で強く印象に残っているのは、ジンバブエ人で農業経済学者のマンディ・ルクニ教授(57)だ。南アのヨハネスブルクでインタビューしたが、教授はアフリカ諸国の人々がかつての家族や村々などの「原点」に立ち返る大切さを訴えていた。
ルクニ教授は「アフリカ諸国はこれまで西洋化を絶対の理想として追い求め、家族、さらにはや村などのコミュニティーが子供を育んできた役割、人間が本来抱いていた自然への畏怖の念などを遅れたものとして切り捨ててきた。そこにアフリカの不幸の元凶があります」と語る。「アフリカでは今、わずか2000円程度の財布を狙って人を殺すことさえする若者がいる。アフリカの伝統社会では考えられなかったことです。なぜか。我々が代々受け継いできた家族や伝統、コミュニティーの価値観を打ち捨ててしまったからです」
だから、アフリカが必要としているのは、独立以来の西洋化だけを崇めてきた心構えを変えることだと教授は説く。海外の援助などで都市部に大きな官公庁のビルや公共施設を建てることではなく、アフリカ人のコミュニティーを根本から立て直すことだという。アフリカでは代々、子供たちは基本的価値観を家族やコミュニティーの中で教わってきたのであり、今多くの若者が仕事もなく、家族やコミュニティーとの一体感もなくさまよっている現状では、治安が悪くなるのは不可避との認識を教授は示した。
ルクニ教授は20年ほど前日本を初めて会議で訪れた時の思い出を語った。毎朝夕ホテルから会議場まで歩いて通ったが、どんなに夜が更けても何の不安も感じなかった。アフリカでは考えられないことであり、「私はその時、昔自分の村でも同じように自由に動き回っていたことを思い出しました。これが本当の現代化だと実感しました。つまり、アフリカで起きているのは現代化ではなく、西洋化だったのです」
「我々は西洋化を推進する中で農業をおろそかにするという間違いも犯しました。工業化を目指す余り、自分たちの食糧供給に大切な農業を無視した。これも日本を訪れた時、都市部でも田畑があり農業が営まれているのを目にして気づいたことです。私はそれまでアフリカが発展しないのはアフリカがいつまでもアフリカ的なものを引きずっているからだと考えていました。いや、そうではない。過去の文化、伝統を守りながら現代化は可能なんだ、そうすべきなんだと分かったんです」
ルクニ教授はアフリカを代表する農業経済学者だ。だが、自分自身の知識がアフリカの人々の暮らしを豊かにすることができなかったことを率直に認めた。「私は若い時は、自分の知識でアフリカに変革をもたらすことができると考えていました。それは間違った考え方でした。発展は学者が説く知識を現場の人々が体得して自らの血肉としない限り、やって来ないんです。我々はそのことに気づき始めています。今はたいしたことはありませんが、国際社会の中でアフリカの重要性が認識される時代が確実に到来すると私は確信しています。生物の多様性一つとっても、アフリカのような大陸は他にありません」
(写真は、アフリカの現代化は実は盲目的な西洋化だったと語るルクニ教授)
ラム肉のバーベキュー
- 2010-12-30 (Thu)
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静岡県浜松市出身の水谷文美さんは北海道大学獣医学部を卒業後、アフリカのジンバブエに渡航。その後、英ケンブリッジ大学の大学院で野生動物と家畜の共生をテーマに研究してきた。ロルダイガ農場との関わりはその延長線上にある。
「家畜と野生動物は同じ草を食べますが、食べる部分が異なります。例えば、トムソンガゼルなどのガゼル種は草の丈が長いと食べられません。それで最初に長い丈の草はゼブラが食べ、続いて、バッファロー、牛が食べ、インパラ、ガゼル、羊などの順番です。だから、家畜と野生動物は共生できるんです。家畜がいる草原では野生動物の数が増えていっています。人間の経済活動、自然保護をそれとどう絡めていくか」
「私が今、考えているのは、農場周辺にある乾燥地帯の小規模農家の人々の暮らしを農場とともに向上させていくことです。ケニアは西部や中央部には肥沃な大地もありますが、国土の75%はここのような乾燥地帯です。乾燥地帯は人口が少ない地域ですので、これまで海外からも含め支援活動が希薄でした。だから、私はロルダイガ周辺の農家の暮らしを改善することは他の乾燥地域への波及効果が期待できると考えています」
さて、ロルダイガ農場の滞在もいよいよお仕舞いに近づいた。それでこの日はハインド夫妻が住んでいた母家に面した庭でバーベキューをご馳走になった。舌鼓を打つ前に、文美さんがもう一つ、興味深いところに案内しましょう、と車で30分ほどの距離にある岩山の洞窟に連れていってくれた。
ライオンやバッファローに出くわす心配がないわけではないので、銃を持った警備員に同行してもらって洞窟に。真っ先に見えたのは白い紋様だが、その下に赤茶色の紋様も見える。「地元の人たちは以前から知っていたのですが、2004年に専門家に調査してもらった結果分かったのは、赤茶色の幾何学的紋様は3500年前のものだったことです。狩猟採集民のピグミーが当時この一帯で暮らしていて、その後、遊牧民の黒人に追われてアフリカ大陸を南下したのではと考えられています」。ここにも有史以前のロマンがある。
バーベキューはラム肉だった。ドーパーと呼ばれる羊の肉だという。うまい。ラムと聞いていなければ、何の肉だか分からなかったかもしれない。農場が営んでいるゲストハウスに滞在しているスウェーデンからの夫妻もおいしそうに平らげていた。
この旅の最後に友人のロルダイガ農場を訪れたのは、アフリカにはこういう世界もありますと紹介したかったからだ。農場の一角に文美さんは英国の大学の助成金と私費で研究者用の仕事場兼宿泊所のコテッジを建てていた。私はこのコテッジに一人寝泊りしたが、深夜は近くでハイエナの鳴き声が聞こえてきた。どうせならあのライオンの鳴き声も聞けないものかと恐いくせに少し期待した。大自然に抱かれた忘れがたい数日間だった。
(写真は上から、家畜のラクダの群れとも遭遇。私を見て好奇心一杯の感じだった。私が滞在したコテッジ。洞窟の幾何学的紋様。ほぼ真ん中に紋様が見える。洞窟から草原を望む。ラム肉のバーベキュー。スウェーデンからの夫妻に給仕しているのが文美さん)
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