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アフリカをさるく

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西米良温泉「ゆたーと」

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 便利になったものである。こうやって田舎の実家に戻り、こたつでぬくもりながらパソコンを打っている。ついこの間までインターネットはもちろん不能、携帯電話も常時「圏外」だった。職場の同僚に自分の故郷では携帯が通じないからと言うと、「え、そんなに田舎なんですか」とあきれられたものだ。
 銀鏡は九州に多い落人部落なのだろう。ただ、古事記だか日本書紀だかにこの地名の由来が書いてあり、簡略に説明すると、古の昔、ニニギノミコトが美しいコノハナサクヤヒメを見初め、プロポーズしたところ、姉のイワナガヒメも妻とする運びとなった。ところが、イワナガヒメヒメは妹と異なり、醜い容姿だったため、ニニギノミコトから送り返され、悲嘆にくれたイワナガヒメがその時手にしていた鏡を放り投げ、その銀の鏡が我が故郷の山中に落ち、地名の由来になったと聞いている。
 子供のころ、兄たちと遊んでいて、田畑の土の中からやじり類のものを幾つも見つけたことがあるから、かなり昔から人が住んでいたのではないかとも思う。古代へのロマンをかきたてる地ではある。
 過疎化の波に抗することが困難なのも現実だが、蓄えのある(私のことではない)定年後の日々を送るには最適の地ではないかと思ったりもしている。これまでのネックは携帯電話が圏外になることだったが、それも解消したようだ。近い将来余裕あるセカンドライフを送る人たちが移り住んでくれないものかと願う。
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 話が湿っぽくなった。天気もいいので、ドライブを兼ね、近くの西米良村にある温泉「ゆたーと」に行く。隣村とは言え、車で40分ぐらいの距離だ。直線距離ではそうでもないのだろうが、曲がりくねった道を行くだけに時間はかかる。野趣あふれるドライブと表現したい。前回の項で「西都温泉」の湯質をほめたが、「ゆたーと」もまた素晴らしい。実際、この温泉の魅力に引かれ、宮崎市内からもやって来る常連客が少なくないと聞いた。
 参考までに西米良村は黒木定蔵村長以下、村おこしに精力的に取り組んでおり、敬意を抱かざるを得ない。読売新聞西部本社勤務時代に九州の山村、漁村を歩いて書いた拙著「集落点描」でもこの村を取り上げた。私なりのエールを送りたかったからだ。
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 「ゆたーと」は期待通り、いい湯が楽しめた。銀鏡でもこんな施設があればいいのにと思ってしまう。さあ、今宵は地元に残っている幼馴染の鉄っちゃん夫婦と語ることになっている。奥さんの純ちゃんも同級生。米良弁で語り合うのだ。正真正銘の幼馴染だから、何の気兼ねもない。いつも飲み過ぎてしまう。いつかの夏休みでは足元がふらつき、実家の石段で滑って石段わきの溝に転落したことがあった。背中を強打してしばらく起き上がれなかったが、幸いその程度の打撲で済んだ。亡きおふくろが護ってくれたのだと今でも思っている。今夜はほどほどにしておこう。
 (写真は上から、西米良温泉「ゆたーと」。露天風呂。露天風呂から対岸の山をのぞむ。入浴料400円。こんな温泉が近くにあったら間違いなく毎日でも通うだろう)

故郷・銀鏡

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 宮崎市内でレンタカーを借りて、一路、西都市の山里にある我が故郷に向かう。途中少し寄り道をして新富町にある高校時代の同級生の友人がオープンした茶屋「まどころ」に立ち寄る。先日の東京での集まりで、同級生から機会があったらのぞいてみて、と言われていたのだ。旧家を活用したレストランで、私が立ち寄った日曜にはランチのお客で賑わっていた。地鶏蕎麦(780円)を注文。手打ちの蕎麦は歯ごたえがあった。
 食事をしていると、高校時代の同級生の女性が娘さんを連れて入って来た。といっても、ほぼ40年の歳月が経過しているから、お店の人の紹介がなかったら、分かるはずもない。私は今の体型から想像することすら難しいが、当時は器械体操部に所属し、3年生の時にはキャプテンだった。もっとも、3年生は他にはたまに練習に出て来るのが一人いただけだからキャプテンになっていただけのことだが。
 少し話をしていたら、「水泳部に入っていた」という彼女の若かりし顔が何となく脳裏に浮かんできた。ような気がする。彼女は私が1年生の時親しくしていた同級生と結婚しており、そのことは知っていたので、「久しぶりだね」と空気が和んだ。はずだ。
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 さて、腹ごしらえは済ませた。ただ、前夜の酒がまだ残っている。こういう時にはサウナが最高の癒しだ。温泉が付いていれば申し分ない。西都市にはあるのだ。その名も西都温泉。プロ野球、ヤクルトのキャンプ宿泊地となっている。この温泉の湯質は素晴らしい。サウナで汗を流し、ラドン温泉につかり、水風呂に入っていたら、体格のいい若者たちがどっと入ってきた。韓国からキャンプに来ていたプロの野球の選手たちだった。風貌だけでは日韓の差なんて分からない。徴兵制で鍛えられているからか、プロの世界で鍛錬しているからか、鍛え上げられた裸体だった。
 温泉を出て、車に戻ると、どうもフロントガラスが曇っている。新燃岳の噴火灰がこの辺りまで飛んで来ているようだ。地元の人に聞くと、今日は風向きの加減か、ことのほか、灰が飛んで来ているとのこと。自然の脅威には勝てない。
 すっかり酔いも抜け、爽やかな気分でハンドルを握った。私はあまり車の運転は得意ではないが、たまにはいい。故郷への道は熟知している。ナビも必要ない。窓を開け、心地よい冷気を入れながらドライブ。街中を抜け、米良街道と呼ばれる道路をひた走ると行き交う車はぐっと少なくなる。山間部に入ると、左手は谷川、右手はがけといった光景が続く。ダム湖を過ぎると冬枯れか水量の乏しい川が目に入った。ここでこんなにやせ細った川を見たのは初めてのような気がする。一時的なものであればいいのだが。
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 ほどなく、郷里「銀鏡」に着いた。これで「しろみ」と呼ぶ。世に言う「限界集落」の郷里だが、私にとっては何物にも代えがたい地だ。両親はとうになく、兄や姉が住むだけだが、今日に至るまでずっと心引かれている。
 (写真は上から、新富町の茶屋「まどころ」。銀鏡への道は「ひむか神話街道」と呼ばれている。ようやくたどり着いた銀鏡の集落)

福岡から宮崎に

 我が故郷、宮崎県が踏んだり蹴ったりだ。口蹄疫が一段落したら今度は鳥インフルエンザ、それに鹿児島県境との霧島連山・新燃岳の噴火。新燃岳なんて山があるのを初めて知った。
 半年ぶりに宮崎に戻った。博多・天神のバスセンターから高速バスを利用。宮崎市内中心部のデパート前まで片道切符だと6000円だが、往復切符で買うと1万円となる。4時間と少しの旅程だが、ゆったりした座席なので読書に専念できると思えば、悪くない。3月に九州新幹線が全線開業したら、博多から新八代まで新幹線で行き、新八代から高速バスに乗り換えれば、3時間と少しで宮崎市内に着くとか。それはそれでいいのだが、「人のふんどしで相撲を取っている」ような感じだ。もっとも、今は大相撲の権威も地に落ちつつあるから、そう気にする必要もないか。
 同じ南九州ながら鹿児島と宮崎はこの九州新幹線の全線開業で決定的差がつくように思える。こうなったら、宮崎は「めったなことでは行けない九州の奥地。奥九州の手垢のついていない魅力をどうぞ」とでも売り込んでいくしかないかなとも思う。
 本日は宮崎市内泊。全国的に知られたチェーンホテルだ。チェックインしながら、景気はどうと尋ねると、女性スタッフが「いや、鳥インフルや新燃岳もあり、キャンセルが相次ぎ、いま一つです」と浮かない返事。近くのおでん店をのぞく。以前にも一度のぞいた店だ。おでんを食べながら、芋焼酎を飲む。宮崎の焼酎は通常20度だから、水やお湯で割る必要もなく、生(き)で飲めるのがうれしい。お店のおばちゃんとお客の中年女性の話を聞くともなく聞いていると、「景気悪いわね。客もあんまり来ないわ。やっと口蹄疫から脱却したと思っていたのにね」「鳥インフルの消毒で駆り出されている役所の人が多いしね」などと話し込んでいる。いや、客商売は大変そうだ。こちらは明日は友人とのゴルフが控えているからあまり飲むわけにはいかず、ほどほどで引き上げる。
 宮崎市内には2泊して、西都市のさらに山奥にある郷里に向かう予定。いつもは妹の車のお世話になっているが、今回はレンタカーを自分で運転するつもりだ。宮崎市内からだとゆっくり運転すれば3時間ぐらいだろうか。山間部に入ると、切り通しの道で眼下は険しい谷川だったりするから、運転には気をつけなければならない。いい年をして、一人で郷里への道を走るのは侘しく思えないこともないが、天気さえ良ければ、自然と心が弾む。弾まないわけがない。人家も少なく、行き交う車もまれ。目にするのは緑一色の山また山。空気もうまい。
 東郷村(宮崎県)出身の旅と酒の歌人、若山牧水はうたった。
 幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
 不肖、さるく小人はうたう。
 寂しさに耐え抜いてこそ優しさか我一人旅したくなけれど

エジプトに思う

 中東情勢が大揺れに揺れている。チュニジアでは長期政権のベンアリ政権が倒され、エジプトでもムバラク政権が退場を余儀なくされつつある。
 上記の両国は北アフリカに位置する。今はAUと呼ばれる「アフリカ連合」(African Union)という組織に属している。AUはその昔はOAU(アフリカ統一機構)(Organization of African Union)と呼ばれていた。
 北アフリカの人々はアラブの民衆であり、イスラム教を信仰しており、南のいわゆる黒人の人々が住むアフリカとは趣が異なる。このため、南の国々はブラックアフリカとかサブサハラ・アフリカ(サハラ砂漠以南のアフリカ)と呼ばれ、北アフリカの国々と区別するのが一般的だ。
 今回の政変劇を見ていて、つくづく考えさせられている。チュニジアやエジプトなどに匹敵する長期独裁政権はブラックアフリカでも少なくない。それでも、今回のような市民の抗議に端を発した政変はあまり記憶にない。いや、皆無かもしれない。昨年秋大統領選挙が行われたコートジボアールでは国際社会やAUが敗者と認定したにも関わらず前大統領のバグボ氏が「自分が勝った」と主張、政権の座から降りることを拒否し続けている。通常だったら、考えられない状況だが、なぜ、このようなことが可能なのか。それはバグボ氏が自らの出身部族の支持を得ているからだ。
 ブラックアフリカは基本的に出身部族がものを言う社会である。例えば、ケニアならケニア人としてまとまる前に、出身部族のキクユ族、ルオ族、ルイヤ族、カンバ族などといった部族ごとのアイデンティティーがまかり通る。だから、汚職や不正で批判された政治家は無実を主張する一方、「これは我々○○族に対する攻撃である。我々は団結して抗議行動に打って出よう」と部族の危機感をあおる。
 私は中東問題は専門外である。これまでの経験や主要メディアの報道で見る限り、中東諸国では部族的な確執は社会的緊張の要因ではないようだ。これが同じアフリカ大陸にありながら、ブラックアフリカとは大きく異なる様相のように思える。
 私はアフリカには関西空港から行きも帰りもエジプト航空を利用したので、カイロ経由だった。帰りにはカイロで長時間のトランジットの間があったので、読売新聞のカイロ支局にも立ち寄り、かつての同僚と雑談する時間もあった。車の中からカイロの雑踏を眺め、ブラックアフリカとは異なる雰囲気を味わった。まさか、1か月もたたないうちに今回の政変が起きるとは夢にも思わなかった。
 思えば、歴史の歯車が動くとき、傍観者には驚くしかないほどの迫力、スピードで動くようだ。ベルリンの壁崩壊の時もそうだった。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)終焉の時もそうだった。平家物語ではないが、「諸行無常、盛者必衰」である。私はエジプト政変劇をアフリカ諸国と比較するのだが、「なぜ、北朝鮮では?」と思う人もいるのだろう。

味噌汁と納豆

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 東京から再び、福岡というか博多に戻り、平穏な日々を送っている。
 先週の土曜日夕刻。昨年春まで文化センターで時事英語を教えていた生徒さんたちが帰国祝いの集まりを開いてくれた。生徒さんと言っても、大学を卒業したばかりの女性から大学で英語を教えている人、定年後も楽しみで英語を学んでいる方などさまざま。講座自体は確か2年か3年続き、少人数の講座だったこともあり、皆さんお互いに親しくなっていた。この日はほぼ最後まで講座に付き合っていただいた8人が、私が馴染にしている小料理屋に集まった。
 私としては月2回の講座に足を運んでいただいただけでもありがたく思っていたが、アフリカへの出立時にも歓送会を催していただき、今度はこの歓迎会まで。会食が終わり、一人四千円の会費を払おうとしたら、「いや、先生の分は私たちが払います」とのこと。深く感謝した。
 大学時代は教育学部で英語を専攻した身ゆえ、人様に英語を教えることは嫌いではない。いや、むしろ、好きである。講座ではいつもギャグを飛ばしながら、しゃべっていた。幸い、生徒さんはユーモアを解する人ばかりで、私のたわいないジョークにいつも笑顔で応えてくれた。
 何人かの生徒さんにアフリカでは何を食べていましたか、日本食が恋しくなりませんでしたかと聞かれた。日本食を恋しく思うことはなかったが、朝ごはんだけは別だった。私の場合、味噌汁と納豆だ。実は私は福岡にいた時、平日はほぼ毎朝のように足繁く通っていた定食食堂があった。小ライスに味噌汁、卵焼きにウインナー二切れ、納豆、ほうれん草のおひたしの計5品で締めて630円。何がいいと言って、味噌汁が絶品なのである。田舎の長姉の味噌汁に匹敵する味なのだ。
 私はこの朝食が楽しみで毎朝、出勤前にこの食堂に通っていた。上記の定食以外に口にしたことはない。これで日中に必要としているカロリーを摂取したら、昼ごはんは抜きでコーヒーか紅茶ぐらいの日々を送ってきた。
 帰国したら、この食堂に行くことをずっと考えていた。今住んでいるホテルに朝食サービスが付いており、毎朝というわけには行かないが、それでも何度か食堂に足を運んでいる。食堂で働くご婦人に「帰ってきましたので、また、時々寄らせていただきます」と声をかけ、お目当ての味噌汁にネギをたっぷり入れてもらい、はい、朝ごはん。いや、こういう朝食さえ食べていれば、100年ぐらい生きられるような気がする。
 時事英語講座でも生徒さんたちに次のような表現を説明したことを覚えている。”You are what you eat.” 「普段から何を食べているかが大切なのです。健康も仕事も性格も考え方も普段から口にしている食べ物に左右されるのですよ」という意味合いの警句だ。明日も散歩がてら、あの食堂に行ってあの朝ごはんを食べよう!
 (写真は、帰国祝いで集まってくれた時事英語講座の生徒さんたち)

二日酔い(hangover)

 久しぶりに二日酔いだ。頭が重い。なんでこんなになるまで飲むのかといつも翌朝になって思わないでもないが、これも成り行きだから仕方ない。
 これも久しぶりの東京。少し遠ざかっていると、この都市の人の多さには驚かざるを得ない。よくこんなところに住めるものだと思う。かつて自分も住んでいてこう言うのもなんだが、時に所用で上京するぐらいが丁度いい。
 昨年まで勤務していた新聞社の定年退職者送別昼食会なるものがあって上京した。翌日、在京の高校時代の同窓生が集まってくれた。私たちは「なんじゃろ会」と称して年に少なくとも1回集まっている。もう30年近く続いているのではないかと思う。常連メンバーは7人程度の小さな集まりだ。高校時代には彼らとこれだけ長い付き合いになるとは思わなかった。
 この夜集まったのは私を含めて5人。居酒屋で飲み、食い、語った。言葉は自然とお互いの出身地域の方言になる。私たちは宮崎県西都市出身だが、微妙に方言は異なる。私は米良(めら)弁だ。仲間は穂北弁だったり、三財弁だったり、妻弁だったり。「おまや、なんば飲むや。ビールかい行くや。最初から焼酎にすっかいな。睦夫、わりゃ、どげすっとか」「こみやの宮様は用事があって来(こ)んちて言うとっとけど、ほんとに来んとかな。あれがおらんと寂しいな。いや、静かでええかもしれん」などといった調子で盛り上がっていく。活字にすると猥雑な印象だが、時に優雅に聞こえなくもない。
 手前味噌になるが、米良弁には今なお古語が生きている。私は田舎に帰ると、年上の人には「おみは元気じゃったや」などと話しかけている。「おみ」はおそらく「御身」という漢字になるのだろう。年下に「おみ」と呼びかけることはない。相手に対する尊敬の念はこの呼びかけだけで十分に通じる。
 私は皆より一足早く退職したので、自由気ままな日々だが、仲間はまだ「現役」。自分で会社を経営して人を雇っている者もおり、彼らの話を聞いていると、いや実に忙しそうだ。敬意を表したい。だが、この夜の集まりではいつものように学生時代に戻って昔話に花を咲かせる。話がどこでどうなったか、かつて仲間の一人が心をときめかせたマドンナに電話をしてみようということになった。こういうことにかけてはまめな者がいて、故郷で所帯を持つ彼女の携帯に早速電話。一人ひとりが「今晩は。元気しとるや」と言いながら話す。私も行きがかり上、「俺のこつ、覚えとるや?」などと言って、ひとしきり話したが、今は何を話したのか全然覚えていない。まだ24時間も経過していない。記憶に残っているのは、電話の向こうの声が18歳の乙女のころのように瑞々しかったことぐらいだ。
 このブログで以前、友情という「木」にはたまに「水」を与えないとやがて枯れてしまうかもしれないと書いたが、我々の「木」は年1回は「水」をたっぷり注いでおり、これからも枯れることはないだろう。そう願う。ああ、楽しい一夜だった。ウイッ。

隣の客は

 アフリカをさるくのブログを基にした本を一冊出すため、資料の整理やら読みかけの本を読み進めているのだが、旅の緊張感から解放されたこともあり、ともすると、怠惰な時間を送ってしまいがちだ。手持ち無沙汰でホテルの部屋のテレビをつけると、大相撲中継をやっているし、昔の刑事もののドラマもやっている。昼日中からテレビを見ていてはお天道様に申し訳ないとは思うのだが。
 そうだ、気分転換だ、と街を歩けば、寒い。喫茶店を探していたら、パチンコ店が目に入った。トイレを借りよう。午後2時過ぎというのに店内には結構お客が入っている。本のコンテでも考えよう。空いていた台に座る。おい、こんなことしていていいのかいという声が聞こえないでもないが、ほどなく、大当たりが来た。確変ではないが。(この辺りはパチンコをしない方には理解不能かと思われる)
 久しぶりのパチンコ店。嫌いな方はなんであんな所にわざわざ行くのだろうと思われるに違いない。いつぞや、東京・浅草でロンドンから来た英国人の女性記者を浅草見物のついでにパチンコ店に案内したら、結構喜んでくれたが、後で「日本人はなんであんな大音響に耐えられるんだ」と真顔で不思議がられた。「いや、あの大音響が考え事をするのにいいのだ。私は考え事をしたい時によく行く。それで臨時収入まであればいよいよ申し分ない」などと答えたような気がするが、彼女はとても理解できないという顔付きだった。確かにそうだろう。あの雰囲気に慣れ親しんでいない彼女の疑問は当然のことだ。
 もう一人の在住歴の長い外国人の識者には日本の都市や町の郊外はどこに行っても、大きな駐車場を抱えたスーパーやパチンコ店が並んでおり、金太郎飴のようだ、あまりにも個性がないと言われた。これは全くその通りで、今も返す言葉がない。
 それはさておき、パチンコと言えば、大当たりが成るか否かの前に「リーチ」という掛け声が台から聞こえて来るが、これはマージャンの聴牌を意味する「立直」から来ているのだろう。私はこのリーチが英語のネイティブスピーカーには何と聞こえるだろうとかねてから思っている。日本人はLとRの区別ができない人が多い。私もその一人だ。大半の日本人が普通に「リーチ」と発声すると、ネイティブにはRではなくLに聞こえるのではと思う。(そうでないかもしれない、自信はない)。仮にLなら、ネイティブにはleechに聞こえていることになる。それなら「ヒル」とか「高利貸し」という意味になる。reachならもちろん「到達する」という意味だ。
 かくして、ギャンブルに手を染める者は心してかからないと、やがて「リーチ」がleechと思えるようになるのではないか、などと私は下らないことを考えてしまうのだ。
 さて、この日の私の台は大当たりは最初の1回だけで、最後まで確変はやって来なかった。お店を寂しく後にするとき、つぶやく言葉はいつも同じこと。「隣の客は良く出る客だ」

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