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アフリカをさるく

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東日本巨大地震

 先週末、言葉にできないほどの大地震と津波が東北地方を襲った。いや、まだ終わってはいない。襲っている、と表現すべきだろう。悲しいのは、我々は発生3日目の今も被害の全容を知っていないということだ。最終的には死者・行方不明者の数はいかほどになるのか。私は金曜日の午後、外出先のテレビの生中継で宮城県・名取市の住宅街が津波に襲われるのを目にした時、最初に頭に浮かんだのは、この大地震の犠牲者は千人単位ではなく、何万人、何十万人単位に上るのではないかという肌寒い思いだった。
 帰宅後、NHKテレビを見ていると、テレビ画面の左上に、新聞で言えば、見出しのようなところに、「死者1000人超」といった文言が見え、違和感を禁じえなかった。この巨大地震の死者が1000人単位で終わるわけがない。どうして、この巨大地震の死者がもっと凄い数に上るということを伝える努力(工夫)をしないのか。「死者1000人超」という数字を目にすれば、何となく、「あ、この地震(津波)、そうたいした被害はないのかな」と安心感さえ覚えてしまうのではないか。頭の片隅に、阪神大震災は確か、死者は6000人ぐらいだったはずだ。ずっと昔の関東大震災の死者・行方不明者は10万人だか15万人といったレベルだったのでは、と「計算」してしまうのだ。
 このブログを書いている日曜午後には、NHKテレビは「不明者1万人超」と表現を修正した。かつて読売新聞社の英字新聞に勤務していたころ、海外で起きる地震や津波の災害に際し、苦い思いをしたことがある。海外の記事だとAPとかロイター通信のいわゆる外電記事を使用するのだが、時差の関係もあり、締め切り間際の「最新」の記事を利用しても、その時点で判明している死者の数は5人とか6人だったりすることがある。その死者数を見出しに使って、翌日になると、死者数が数千、数万人に膨らんでいたりすることがしばしばだった。だから、明らかに死者数が増えることは必至である場合、見出しにその時点で「使える」数字の使用は控えるようにした。
 九州にいて、今回の巨大地震の進展を見ていると、複雑な気分にならざるを得ない。人的被害が最小限にとどまることを願うのは言うまでもない。ただ、それにしてもと思わざるを得ない。なぜ、かくも犠牲者が膨大な数にふくれたのか。私は1990年9月から2年間、読売新聞の盛岡支局(岩手県)に勤務していた。県政担当記者だったが、今回大きな被害が出た釜石や宮古市など三陸地方では大地震時の津波襲来にどう備えるかということが行政の大きなテーマだったことを記憶している。過去に何度も大きな津波被害に遭っているからだ。
 報道を見る限り、最初の大きな地震発生後、津波の第一波がやって来るまで少なくとも30分前後の時間はあったようだ。今回の津波被害は、まるで巨人が大きな熊手でまだ事の重大さを認識していない住宅街の住民をごそっと海に引きずり込んだように見える。あれほど、津波の恐ろしさを知っていた三陸海岸の人々に一体何が起こったのだろう。災害訓練の「慣れ」でもあったのだろうか。

南大隅町

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 隣県は近くて案外遠いものだと思う。宮崎県人の私はこれまであまり、鹿児島県に出向くことはなかった。今は、そうではない。毎年1回は必ず、鹿児島県に足を運んでいる。大隈半島南端にある南大隈町。この町の人々に特別の親近感を抱くようになったからだ。
 南大隅町はかつての佐多町と根占町が合併して誕生した町。私は読売新聞の編集委員時代に企画「集落点描」の取材でこの町を取材、特別な縁ができた。旧佐多町に打詰集落というのがあり、私は毎年3月の第1日曜日に打詰集落に足を運んでおり、今年が3回目。集落の「守り神」とも言える稲尾神社が祭ってある稲尾岳に登り、お参りをするのが集落の大切な行事であり、稲尾神社参拝に同行するのが目的だ。限界集落のため、この行事は昨今は地区外の人のボランティア参加で成り立っている。
 南大隈町取材の翌年、町役場の人から「今年も稲尾岳に登りませんか。集落の人も楽しみにしているようですよ」と電話を受け、そこまで言われて拒絶できようはずもない。南大隈町は本州最南端の町。その中でも打詰集落はその名が示す通り、山里の奥深い地にあり、たどり着くのは一苦労の地だ。幸い、町役場で懇意になった人が都城駅で待っていてくれ、その夜は旧根占町にあるホテルに投宿した。
 翌日曜日朝、再び車で打詰集落に向かい、地元の人々と合流。皆さん、笑顔で迎えてくれた。今年の登山者は17人。限界集落で高齢者が多いため、地元の人は2人だけで、残りは地区外、町外の人だった。こちらの人たちとも顔馴染の関係だ。稲尾岳は標高930㍍で、登山時間は3度の休憩を入れて約2時間半。坂が結構きついところもあり、そんなに簡単に登れる山ではない。山育ちの私も時にあえぎながら登った。だから頂上に着いただけで、安堵感で幸せな気分に浸れる。
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 山頂に着くと、祠の周りを掃除して、参拝。その後、楽しみにしていた昼飯となる。枯れ枝を集めて火を起こし、汗が引いて冷たくなった体を温める。それでなくとも、山頂は冷え込んで風邪を引きそうだ。登山途中で地元の人が見つけた自生の大量の椎茸をあぶって、それを肴にお神酒(焼酎)をいただく。うまいの一言。
 下山した後は集落の集会所で宴会。集落の高齢のご婦人たちが心を込めて用意してくれた猪肉の煮付けや赤飯をありがたくいただく。手ぶらで接待を受けるわけにもいかない。もちろん金一封を包む。今年は近くで不幸があったとかで、葬儀に出かけざるを得ない人が何人かいて、そうした人たちとは再会がかなわず、残念だった。
 九州新幹線の全線開業が明日(12日)に迫り、人口減、景気低迷に苦しむ南大隅町の人々も何とか、町起こしにつなげられないかと模索している。薩摩半島の指宿と南大隅町を結ぶ「山川・根占フェリー」も今月1日から再開されたばかり。フェリー到着所でレンタカーを始める動きも本格化していた。
 (写真は上が、打詰集落から稲尾岳を望む。写真中央の平坦な所が山頂。右の三角のとんがりは山頂ではない。下が、稲尾神社の祠の前で焚き火しながらの食事風景)

バタワース先生

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 前回、学生時代の夢の話を書いた。その懐かしい母校、宮崎大学に久しぶりに先週末、足を運んだ。宮崎大学で長く教えていた米国人の先生が大学を再訪されていたからだ。
 ガイ・バタワース先生。英会話の講義を何年か受けたが、講義の内容は残念ながら、あまり覚えていない。よく覚えているのは、講義とは関係なく先生と交わした雑談の類だ。
 私が米国留学(1年間)から帰国した4年生の時に、先生はすでに赴任されていた。先生の研究室に行って、私は講義の受講希望を伝えた。その際、会話の流れから、 “I want to study English conversation.” と言ったのだろう。先生は苦笑しながら、そういう表現は奇異な感じがする、英語では ”I want to learn English conversation.” と表現した方がベターだと指摘された。なるほど。
 忘れがたい一言もある。(留年を重ねた)7年生のころ、就職先を思案しているころ、彼の言葉が新聞記者になる道を選択させた。私が新聞社の入社試験を受けるべきか逡巡していると、彼は「ミスター・ナス、落ちるのが恥ずかしいからチャレンジしないのでは?」といった趣旨のことを言われた。「いや、全然そうではない。そんなに僕の度量は小さくありませんよ」と反論、結局、その一言で読売新聞東京本社の入社試験を受けに、上京、現在に至っている。
 そんなことはまあ、どうでもいいのだが、バタワース先生は2001年に帰国された。私は先生が宮崎大を離れる直前にお別れを言っているので、先生との再会は丁度10年ぶりだったのだろう。思った以上に若々しい先生の顔を見て、うれしく思った。先生の人徳もあって、教育文化学部の会場は英語科の卒業生を中心に多くの人が来ていた。私は英語科でともに学んだ同期の仲間とは卒業以来、一度も会っていない。彼らはほぼ22歳で卒業しているから35年も会っていないことになる。何人かとは会えるのでは楽しみにしていたが、さすがに彼らの姿は見えなかった。それでも、もう宮崎大学は退官されている英語科の先生たちと立ち話とはいえ、久しぶりに語らうことができて、とてもうれしかった。
 「あのお、O先生、お久しぶりです。いや、実は2年生の時に受けた米文学の講義、私はまともなレポートを提出しておらず、単位が取れたのは、先生のお情けだったとずっと感謝しているのですが・・・」「いや、そんなことはないよ。君は少なくとも講義には出席していたからね」「ありがとうございます。先生、実はアフリカをさるく旅から帰ったばかりなのですが、今度はアメリカを歩くことを考えていて、米文学作品の舞台となった土地も訪ねたいと思っています」「ほう、それは面白い。私は今、あの作家の良さを見直しているところなんだ。君は読んだことがありますか。あの作家の良さはだね、・・・」
 上記のような会話を交わせたことをとても幸せに思った。学生時代にはO先生とこのような会話をできるとはとても想像できなかった。
 (写真は、英語科の卒業生と語らうバタワース先生。昔より若々しく見えた)

カズオ・イシグロ氏のこと

 今も会社員時代の夢をよく見る。就職したばかりのころは、大学の夢をよく見た。場面はいつも決まっていた。仕事をしていると、大学の教務課から職場に電話がかかってきて、私が出ると、「那須さんですね。あなたは卒業に必要な単位が不足していることが判明しました。週に一度、補講を受けてもらわなければなりません」と告げられるものだった。
 私は夢の中で愕然として、頭の中で「会社にどう説明しようか。週に一度だったら、なんとかこなせないかな」と思い悩む。おおよそそんな感じの夢だった。地方部八王子支局から国際部に異動すると、今度は支局で持たされていたポケットベルが鳴り、支局に電話をかける夢だった。デスクから「おい、那須、今日の提稿予定は? 何?原稿の予定がない。おい、どうするんだ。明日の紙面はまだ空っぽだぞ」と嘆かれる夢だ。
 どうも、私の場合は自分の直近の人生を追いかける形で夢を見るらしい。今は、退社した西部本社の職場が「舞台」となった夢で、さすがに、上司から「おい、原稿は?」というシーンはないが、時に懐かしい同僚諸氏が出てくる。
 前置きが長くなった。長年の愛着があるので、日々コンビニで購入するのは読売新聞だ。昨日の文化欄に興味深い記事が出ていた。英国の日系作家、カズオ・イシグロ氏のインタビュー記事だ。著作「わたしを離さないで」(原題 “Never Let Me Go”)の映画化を前に来日したのだという。
 イシグロ氏は私と同じ1954年、長崎生まれ。5歳の時に父親の仕事の関係で渡英、以来ずっと英国で暮らす作家だ。インタビューでは「女性の話す日本語は理解できる」と語っているが、普段の思考は英語なのだろう。それでも、「もののあはれ(哀れ)」の概念に言及したり、小津安二郎の映画を好んでいることなどが紹介されている。
 私はイシグロ氏の作品は大半を読んでいる。翻訳ではなく、英語の作品だ。偉そうに言っているのではない。彼の作品はとても読みやすいのだ。同じ英国でもサマセット・モームの作品も分かりやすい英語だから、彼が日系だから分かりやすい英語を書いているとは思わないが、読みやすいことは我々英語の非ネイティブには本当にありがたい。
 英語自体は分かりやすいが、書法というか、彼の一部の作品には独特の流れがあったりして、時に面食らうこともある。ロンドン支局時代に彼の作品の一つを読んでいた英国人助手はあまりの奇抜な流れに、途中で読み進めることを放棄してしまったほどだ。
 “Never Let Me Go” も英語自体は分かりやすい作品だった。描かれたテーマは一言では表現できない不可思議、物悲しい世界だった。他人のための臓器提供者として短命を運命付けられた人生・・・。この本(翻訳)を読んで「人生観が変わった」と語る人に出会ったこともある。インタビューを読むと、しかし、作家がこの作品を「人生の応援歌」として書いたことが分かる。水前寺清子ではないが。
 原作を読んで映画を観ると、がっかりすることは少なくない。この作品に関しては、イシグロ氏自身が制作現場に足を運んだという。作家が映画のプロモーションのために来日するほどだから、がっかりさせられることはないのだろう。上映は3月26日から。

いや、お前さんに見つめられてもなあ!

 福岡市内で学生時代の先輩のアパートの一室にお世話になり、暮らしていることは先に書いた。「水は低きに流る」という格言通り、ともすると怠惰な生活になりがちだ。もっとも、この表現の意味を改めて、辞書で調べると「物事は自然の成り行きに従うということ。自然の勢いは人の力では止めがたいということ」と載っている。自然の成り行きか。
 先輩は仕事で多忙な日々なので、ほとんど一人暮らしの気安さだ。いや、正確には一人と一匹と言うべきかもしれない。先輩が飼っている猫が一匹いるのだ。これが実に人懐っこい猫だ。テーブルでこうやってパソコンを打っていると、両膝の上に乗ってくる。両足にじゃれついてくる。私はもともと猫が大好きだから、一向に気にならない。
 傑作なのは、夜毎、布団で寝ていると、布団の上に乗ってくるのだ。もう成長した猫だから結構重い。私の体の窪みに合わせるように寝ている。毎朝、胸の上に重さを感じて目覚めてしまう。目を開けると、猫が目の前、布団の上、10センチ先に座している。眠ってはいない。私の顔をじっと覗き込んでいる。アフリカ以来、鼻の下に口髭(くちひげ)をはやしているので、ひょっとしたら、私を「同類」と思っているのかもしれない。私は「おはよう」と言うのも忘れ、猫の目をじっと覗き込む。子供のころ、よく遊んだビー玉に似たきれいな瞳をしているが、その目の奥で考えていることは皆目見当もつかない。
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 それで猫に話しかける。「おい、○○、重いよ。降りてくれよ。そうでないと、寝返り打って、振り落とすぞ。脇で休んでくれよ」と。○○はもちろん、猫の名前だ。彼の許可を得ずにこの文章を書いているので、あえて○○としている。でもって、この猫はオス猫なのだ。別にメス猫であっても、私の態度が変わるわけではないが。時々、毛布を持ち上げ、隙間を作って、「どう一緒に寝るか?」と湯たんぽにしようと誘っても、「ふん!」といった顔付きで行ってしまう。そのくせ、布団越しに私の体をベッド代わりにしているのだ。贅沢な猫だ。でも、不愉快ではないからされるままにしておく。
 出かける時には「おい、○○、僕はちょっと出かけて来るからな。今夜は人と会うから遅くなる。(机の側の)ファンヒーターは悪いけど、(電源)切ったからね。今夜も寒くて大変だろうけど、勘弁してくれ。でも、世の中には寒風の中でうろついている野良猫も沢山いるんだからな」などと声をかける。(実際にはこんなに丁寧に説明はしていないが)
 実に物分りのいい猫で、後追いすることもない。「行ってらっしゃい。早く帰って来るのよ」と言ってくれもしないが。
 私が今、一番、心配しているのは、この猫ともやがて、別れの季節がやって来るということだ。私がいなくなったら、きっと、「寂しく」感じるに違いない。それを思うとつらい。ごめんね。でも、私はまた旅に出なくてはならない・・・。しかし何でまた、女性ではなく猫に対してこうした思いを抱くんだろうか、この私は! しかも、オスに!
 (写真は、布団にくるまった私をじっと見つめる猫の○○。この見つめ合いが毎朝の日課となってしまった)

こんな写真があるとは!

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 田舎に戻る度に感じるのは物悲しさだ。故郷が段々やせ細っていくのだ。こういう思いをしないで人生を送る人をうらやましいとずっと思ってきた。人生とはこんなものかもしれない。そういう故郷が今もあるだけで幸せと思うべきかもしれない。
 我が故郷には興味深い伝承や史実が少なくない。昭和54年だかに先人が東米良村史という労作を刊行している。その中でも面白そうな史実がそこかしこに記されている。西南の役で敗れた西郷隆盛が銀鏡の道を敗走、村の一軒の民家に泊まり、柱を背に一夜を明かしたことなどだ。江戸時代には一帯を治めていた武将の居城、銀鏡城も築かれていたとか。
 余力があれば、将来、こうした史実を私なりに文章にできないものかと思っているが、はたして・・・。そうした昔のことを知っている人は当然、年々少なくなっているわけであまり残された時間はない。
 長姉夫婦の家をお昼ごろに辞して、普段はめったに通らない西米良村へのスーパー林道を車で走った。まず、対向車とすれ違うことはない。深い緑の谷を見下ろす。観光資源とならないものだろうかとも思う。
 西米良村では村を「カリコボーズの里」として売り出している。基本的には山の神のような存在だが、川に下ると水の神にもなる。夜になると、山の中から「ほー、ほー」という不思議な鳴き声が聞こえてくる主がカリコボーズだ。子供のころ、この鳴き声をすると、カリコボーズの機嫌を損じて悪さをされるとされ、真似をしたくても我慢した(ような)記憶がある。
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 西米良村では温泉の項でも書いたが、住民の方々がさまざまな村おこしに取り組んでいる。その一つ、小川地区では「平成の桃源郷」を目指して村外の人々を地区内に招じ入れる施設を築き、交流を図っている。銀鏡城の後に建てられた小川城が城址公園として整備されており、小川民俗資料館もあり、地区の歴史が紹介されている。私が訪れた時、数人の中高年のお客がいた。ご先祖が米良城主の家来だったとかいう人が民俗資料館の資料を興味深そうに見入っていた。
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 さて、故郷でくつろいだ後、明日、再び高速バスで福岡に向かう。福岡ではこれまでホテル住まいだったが、これからは高校・大学時代の先輩のアパートの一室に居候させてもらうことになっている。独身貧乏ゆえに大助かりだ。しばらくはもう書くこともないかもしれない。あれば書こう。実家で焼酎を2杯ほど聞こし召しただけだが、なんだか、連日の深酒で少し肝臓が疲れているようだ。「あんちゃん、おみはもうそれでいいや。俺ももうこれでやめとくわ。あした、車ば運転して宮崎まで出らんといかんしな。ウイッ」
 (写真は上から、スーパー林道の途中にある虹の滝。西米良村の小川城址公園。幼馴染の純ちゃんが持って来てくれた小学校時代の全校生徒の記念撮影の写真。初めて見た写真だ。昔はこんなに子供たちがいたのだ。私は当時小学2年生。前から4列目のほぼ中央に写っているのを何とか見つけた。若い。当たり前だ)

猪肉

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 銀鏡は幾つかの集落に分かれている。私の実家は銀鏡川が流れている川筋にある。子供のころは水量豊かな川だったが、今は川底の半分は渇いている。昔は泳いでいる魚を家の中から見ることができた。夏休みは水中眼鏡に「金突き」(かなつき)と呼ぶ、泳いでいる魚を突き刺してとらえる銛を手にこの川で遊んだ。私は要領が悪く、あまり魚を突くことができなかった。第一、社会人になってプールで泳ぎを覚えるまでは、かなづちだった。流れが速く、滑りやすいとは言え、ひざぐらいの水深の浅瀬でおぼれた経験があるのはそうはいないだろう。
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 長姉が嫁いだ先は実家から車で15分ぐらいの山中にある。車がなかった昔は歩いて訪ねたものだ。険しい坂道をあえぎながら上った。子供の足では1時間程度はかかったような気もする。曲がりくねった道を黙々と歩き、急に視界が開けて人家の屋根が見えた時はほっとしたものだ。集落の名は「古穴手」。これで「ふらんて」と呼ぶ。地名の由来は忘れたが、いろいろ勝手に民話の一つや二つこしらえることができそうな地名だ。
 先述した通り、今は下の道からスーパー林道が山肌に沿うように通っており、家の軒先まで車で来ることができる。ドライブの景観はちょっとしたものである。あまり見とれていると、ガードレールのない区間もあり、真下は谷底のようなものだから、油断はできないが。このスーパー林道をまっすぐ行くと、前回書いた西米良村に到達する。道中の景観も素晴らしいので、次回に写真で紹介したいと思っている。
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 田舎に戻ると長姉夫婦に会うため、必ずこのふらんてに上がっている。義兄が炭火で焼いてくれる猪肉が楽しみでもある。昨夜は今年の狩で獲れたばかりの猪の肉をご馳走になった。都会の人に山の猪の肉の旨さを何度も説明したが、いつも、隔靴掻痒の感を抱いてきた。私は肉の脂身の部分は食べないが、猪の肉は別。体毛が少し残り、脂身のある部分がことのほか旨い。この猪の肉を肴にすると、いや、焼酎がまた格別の味となる。だいぶ前になるが、正月で帰省し、東京でお世話になっている人に猪の肉をお土産に持って行ったことがある。後日、家族の人から、脂身の部分はきれいにはぎ取り、犬に上げたら喜んで食べましたとお礼を言われ、返答に窮したことがある。
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 猪の肉だけではない。こんにゃく、山わさび、たけのこ、ぜんまい、さとがらなど、この辺りは山の幸の宝庫でもある。長姉夫婦は今も農林業を営み、特に無農薬、無垢の自然の中での椎茸栽培は素人の私が見ても、立派なものを毎年山のように作っている。
 過疎の波で後継者問題が深刻なことはもちろんのことだが、近年は猪や鹿、小動物が上記の山の幸を食い荒らしているという。人間が旨いと思う山菜は彼らも同様のようである。
 (写真は上から、上ってきたスーパー林道を見下ろす。長姉夫婦が住む家。猪の肉を炭火で焼く義兄。こんがり焼きあがると実に美味な味に)

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