- 2011-03-21 (Mon) 00:48
- 総合
東日本巨大地震。このところ、部屋にいる時はテレビを見る時間が格段に増えた。外出時には携帯ラジオで地震と原発関連のニュースを聞いている。一日も早く収束して欲しいと願うばかりである。
民放テレビはとっくに普段の番組に戻ったようだ。チャンネルをかちゃかちゃやっていてこのところ、思ったことがある。それは、「ACジャパン」(旧公共広告機構)だかの広告のことだ。こういう大災害時だから、通常の企業広告が流しにくい事情があるのだろうか。このあたりの事情は全然知らないので、あまり言及したくないのだが、それでも気になる。
それは公衆マナーや健康の大切さを説くそうした広告の「氾濫」だ。いや、あれだけのものが画面からあれだけあふれてくるのには参った。正直、訴えかけてくるメッセージが右の耳から左の耳に出ていくだけで後には何も残らないのだ。あれだけ短時間の間に繰り返しあの種の放送を聞かされると、いかに、我々現代日本人のモラルが落ちているかを「お上に説教されている」印象さえ受けた。しかし、多くの日本人が今回の大地震に心を痛め、支援の手を差し伸べていることは数々の報道が伝えているではないか。ものには限度というものがあろう。
日本の都市部は「騒音都市」だと私は思っている。聞きたくもない「アナウンス」が街中にあふれている。卑近な一例では、多くの人が利用する施設に行き、エスカレーターに乗れば、「てすりにおつかまりください」といった類の放送がのべつ流されている。のべつだ。近くに座って本でも読もうとしても、気持ちよくそうできる環境ではない。利用者の転倒事故でも起きた際に、我々は『注意喚起』」の放送を絶えず流していました」と責任を求められる事態に対処するための防御措置としか思えないこともある。そのほか、多くの場所で我々は不必要なアナウンスを聞かされている気がしてならない。
上記のテレビに関して言えば、気になるなら、テレビを消して見なければいいではないかということになる。事実そうだ。ただ、地震発生直後は多くの情報が欲しくて、民放も見ざるを得なかった。そうした中、NHKの地震報道を一番良く見続けている理由は、一番信頼がおけるテレビ局だったからだけの理由ではない。
日本中が一生懸命、未曽有の大災害の救援及び復興に躍起となっているさなかに、こういう一文を書くことは気がひけるのだが、民放テレビ広告に関する限り、私の偽らざる心境を書くとこうなる。かてて加えて、最近ではどうでもいいような馬鹿げたバラエティ番組が復活したのでなおさらの心境だ。漫才や落語など「お笑い系」が大好きで、「お笑い系」そのものの人生を歩んでいる私をしてもだ。
気が滅入ってきたので、このあたりでやめておこう。