- 2010-12-01 (Wed) 07:26
- 総合
ケープタウンで夕刊紙の「ケープ・アーガス」を訪ねた。編集局長とのインタビューを取り付けていた。編集局長室に案内されていささか驚いた。あまりに若々しい人だったからだ。ハサント・アバダー氏。年齢を尋ねると32歳だという。私はこの年齢の時、新聞社の国際部で一番下っ端の記者として忙しく(忙しそうに)動き回っていた。
私の口から出た最初の質問は失礼ながら、「今の要職にはどういう経緯でおつきになったのですか」というものだった。
「私はケープタウンで育ちました。先祖は植民地時代に東南アジアから奴隷として連れて来られました。アパルトヘイト(人種隔離政策)の人種区分で言えば、カラードのグループに属します」とアバダー氏は語り始めた。ケープ・アーガスは1857年の創刊の新聞。「私のような者がこの新聞の編集局長をしていることなどアパルトヘイトのころには考えられなかったことでしょう」
アバダー氏はネルソン・マンデラ氏が獄中から釈放され、南アがアパルトヘイトから民主化の道を歩み始める1990年代前半に「エキサイティングな高校時代」を送り、その経験がジャーナリストになることを決意させ、大学でも政治学とともにジャーナリズムを専攻した。「南アには特にこのケープタウンにはまだまだ語られていない話が多々あります。だから、ジャーナリストになりました」
このブログでしばしば、エスニシティー(民族・部族)のことに触れてきたかと思う。非常に微妙な問題であり、あまりこの種のことにこだわりたくない気持ちはあるのだが、アフリカを考える時、避けて通れない事柄の一つだ。国内で政治的対立が起きた時、一般大衆の怒りが時として自分たちと異なるエスニシティーに対する理不尽な暴力となってきたことは、アフリカの歴史が物語っている。
南アのアパルトヘイトはエスニシティーを否定的にとらえた極論だ。「南アは黒人が多数派」という現実を覆い隠すため、黒人もズールー、コザ、ソト族など言語や風習の違いに沿って複数のエスニシティーに分類された。インド亜大陸の出身者はアジア人として、東南アジアからの移住者と白人、先住民との混血で誕生した人々はカラードとして区分けされた。
カラードの人口は現在、白人と大差のない約450万人。ケープタウンがある西ケープ州に限って言えば、黒人を上回る多数派だ。アバダー氏は過去よりも未来志向を強調した。「私の妻は白人です。これもアパルトヘイト時代だったら、(雑婚禁止法で)私は犯罪者だったでしょう。子どもが二人いますが、私は自分の子供たちにカラードの歴史を重荷にするつもりはありません。彼らには南アフリカ人として、アフリカ人として、誇りを持って生きていってもらいたい。この国には希望があります」
(写真は上から、ケープ・アーガスのアバダー編集局長。ケープタウンにクリスマスシーズン到来を告げる夜の灯りが点灯された。写真を撮ってと元気良く駆け寄ってきた4人の美少女。2人は明らかにカラードの風貌をしている少女だ)