- 2010-11-13 (Sat) 19:49
- 総合
南アでは幾人か忘れがたい人がいて、今回の再訪で再会を楽しみにしていた。モファット・ズングもその一人、だった。彼の電話番号などを記した手帳をなくしていたので、彼がかつて勤務していた新聞社に電話を入れた。実は名前もうろ覚えだった。
「ハロー。私は日本から来ているフリーランスの記者です。おたくの新聞社で勤務していたカメラマンと昔親しくしていました。だいぶ昔の話ですが、名前を聞けばすぐに分かります。小柄でがっしりした体格の男で今はもう定年で辞めているかと思います」
「モファット・ズングのことですか」「そうそう、その人です。どうやったら会えますか」 「私たちは5年前に彼を埋葬しました」
私は絶句した。ああ、そうなんだ。電話口の人は「ズング夫人なら会えますよ」とも言った。私は夫人も知っている。アパルトヘイト(人種隔離政策)で白人はソウェトの黒人居住区に足を踏み入ることはできなかった当時、モファットが「黒人居住区の実態を味わえ」と私を彼の自宅に連れて行ってくれたからだ。
「大丈夫かい。私があなたの家に行くことで、隣近所の人たちにあやしまれたりしないかい。迷惑をかけたくないし、僕自身、不安だから」と念を押す私に、モファットは「心配するな。俺たちはもう十分苦しんできた。近所の人たちはそれを承知している。誰もお前さんに手などかけないよ」と言った。その時は愚かしくも私はそれ以上、尋ねることをしなかった。
当時はアパルトヘイトが3年後の90年には瓦解を始め、さらにその4年後の94年には黒人政権が誕生することになるだろうとはとても思えなかった。ソウェトでは白人政権に協力を疑われた黒人の人たちが同胞から時に殺害されていた緊迫した時代だった。
ズング夫人の携帯に電話をかけた。彼女は「おお、ナス、あんたのことは良く覚えているよ。モファットは死んでいないが、家においで。覚えているだろ?」と喜んでくれた。私はアフリカでショウイチではなく、ナスがファーストネームだと思われて、そう呼ばれることが多い。覚えやすいのだろう。20年もそう思われていては、いまさら、「ショウと呼んでくれ」とは言えない。「ミセス・ズング。モファットのことは残念ですが、彼のお墓ぐらい参らせてください」。「何でもっと早く連絡をくれなかったのかい。ヨハネスのホテルは高いだろ。家に来ればただで泊めてあげられたのに。早く来なさい」
そういう次第で今週末をズング邸で過ごすことにした。ズング邸は私が知っていた当時より拡張され、外装も一新、快適な家になっていた。「たいしたことないわ。リビングルールやバスルームは確かに新しくしたけどね。モファットがいなくなって寂しいから、今は孫娘の一人が時々遊びに来てくれるわ」とズング夫人は話し始めた。
(写真は上から、ソウェトのズング邸。今もとても元気なズング夫人。近所の子供たち。楽しそうに遊ぶ声が開け放した戸口から聞こえてきたので、写真を撮らせてもらった。子供はこうあるべきというくらい無邪気で、私以上に喜んで撮らせてくれた)