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ソウェトの変貌

  • 2010-11-05 (Fri) 04:18
  • 総合

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 ヨハネスブルクと言えば、ソウェトだろうか。南ア最大のタウンシップ(黒人居住区)である。タウンシップはアパルトヘイト時代の名称だから本来なら今では使うべきでないようにも思うが、この国自体で今も当然のように使用されている。
 ソウェトはヨハネス取材では幾度となく足を運んだ。アパルトヘイト時代には白人が最も恐れた世界でもある。私は白人ではないが、ここを取材で訪れる時には「勇気を奮って」出かけたものだ。当時、案内人を雇って訪れるということは頭に浮かばなかった。
 さて、今回は事情が異なる。なにしろ、今では、ヨハネスからソウェトに観光バスが走る時代なのだ。私がホテルで待っていると、大きな乗用車がやってきた。運転者はガイドを兼ねた30歳代のベンさん。私のほかにはオランダ人の女性の観光客2人。出発!
 「ソウェトはヨハネスで1886年に金鉱が発見され、鉱山で働く黒人労働者が市内から追い立てられて出来た居住区です。ヨハネスの約22キロ南西部に位置し、south western townshipですから、Sowetoと呼ばれるようになりました。面積は約160平方キロ。正確な人口は誰もわかりませんが、250万人以上でしょうか。今も国内外から仕事を求めて人々がやってきています」とベンさん。
 最初に訪れたのは1976年の「ソウェト蜂起」で知られるオーランドウエスト。アフリカーンス語の教育に抗議して児童・生徒が決起した事件で、アパルトヘイトの実情を世界に知らしめる契機ともなった。この事件で警察の発砲で死亡した少年の名前を取った記念館が2002年にオープン。当時の南ア社会がビデオや写真などで紹介されていた。
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 驚いたのは、周辺部がきれいに整備され、木工品や絵画、アクセサリー品などの土産物のお店も道端に並んでいたことだ。観光バスや観光客が乗ったタクシーが次々にやってくる。「多い日には1日に3千人ぐらい来ることもあります」とベンさんは言う。
 続いて、近くのヴィラカズィ通りにあるマンデラ氏がかつて住んでいた家を訪ねた。この家も今は記念館として観光スポットになっていた。私は1990年2月にこの家で釈放8日後のマンデラ氏に単独会見しているのだが、とても同じ家とは思えないほど「立派に」なっていた。ヴィラカズィ通りを少し下るとデズモンド・ツツ元大主教の家もあり、ベンさんは「この小さな通りはギネスブックものなんです。なにしろ、二人のノーベル平和賞受賞者が住んでいたんですから」と誇らしげに語る。なるほど。
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 我々が見学したのは観光客用のソウェトであって、本当は「悲惨で危険」なところもあるのだろう。それでも、「9つのショッピングセンター、78の高校、世界一でかい病院のある」(ベンさん談)ソウェトの変貌には目を見張った。「上院議員時代のオバマ米大統領も案内した」というベンさんのガイド料金は400ランド(約4400円)だった。
 (写真は上から、ソウェトの比較的富裕な層が住む住宅街。ソウェト蜂起の記念館にやってきた観光バス。フランス人の一行だった。貧困層が住む一角。コンクリート管のそばにある出っ放しの水が唯一の水道源だという)

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