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May 2011

台風一過

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 前項で書いた台風は願い通り、わが故郷はすっと通り過ぎてくれた。
 例によって、義兄の家も訪れ、またしても、猪肉をご馳走になった。いや、そのうまいこと。私は個人的には猪肉はステーキよりもうまい、世の中で最もうまい肉だと思っている。時節柄、タケノコが旬であり、タケノコの煮込みも食べた。手前味噌だが、長姉の作るタケノコの煮込みは最高に美味。ご飯が何杯も欲しくなるうまさだ。
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 前にもこのブログで書いたことがあり、また、書きたくはないのだが、帰郷はうれしくほっとする思いとともに、果たしていつまでこの故郷が存在し続けることができるのだろうかという悲しみにまといつかれる旅となる。私は昔から、都市部や町に生まれ育った友人たちをうらやましく思ってきた。今も。彼らの便利な暮らしに憧れたわけでも、自分の田舎育ちを恥ずかしく思ったわけでもない。ただ単に年々寂しくなっていく、小さくなっていく故郷が哀れに思えてならないからだ。都市部の人たちはこういう悲しみに胸を打たれることはないのではと思う。
 数年前に「集落点描」を取材、刊行したのも、九州の似たような集落を歩き、エールを送りたかったからだ。わが故郷に酷似した集落で雄々しく生きる人々に会った時はとても心強く思った。彼らとはまたいつか再会したいと願っている。
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 山間僻地に住む人たちはそういう暮らしをせざるを得なかった歴史的経緯があるのだろう。現代の今となっては、皆が都市部、町に出てきて、快適な暮らしを享受すればいいではないかという考え方もあることは承知している。でも、そうなれば、誰が山間部の田畑、山を守るのか。都市部の暮らしを支える水源地は荒れ放題となってしまう。第一、山紫水明の国土はどうなるのだ。
 話が湿っぽくなってしまった。ただ、故郷に関して自分の偽らざる気持ちを記せば、こういうことになる。
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 今日は西都市の隣の新富町の蕎麦屋「まどころ」で、高校時代に英語を習った恩師と同級生の女性2人の総勢4人で食事を楽しんだ。同級生とはずいぶん久しぶりの再会だった。開口一番「あら、那須君、やせたわね」と言われた。実は私、楽な日々を送っているせいで、近年では一番太っている。「やせた」と言われると、少しうれしい反面、昔はすごいブタ太りしていたことが分かり、それはそれで複雑な心境になるが、彼女たちと話していて元気をもらった。メールのやりとりで事前に少しは知っていたのだが、同級生の一人Aさんは点訳ボランティアのベテラン。拙著(翻訳)「二人の運命は二度変わる」も親切に点訳していただいた。彼女が宮崎県内で点訳の大切さ、楽しさを広める指導的立場にあることも今度初めて知った。嘆いてばかりはいられない。
 (写真は上から、またもや猪肉。このタケノコも美味だった。故郷の銀鏡神社にお参り。蕎麦屋で記念撮影。同級生の女性は当時のままの魅力を維持。恩師のS先生は私と変わらない若々しさ。そういえば、いつぞやの同窓会で私は恩師の一人に間違われた)

台風来ないで!

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 宮崎の田舎に戻っている。昨日、福岡から戻った。普通は最も安い手段である高速バスで福岡市中心部の天神バスセンターから宮崎までの長旅だ。時間にして約4時間と10分。料金にして6000円。往復で買うと1万円で済んでいた。飛行機代に比べると格安だから、よく利用していた。(今はこのバスは片道4500円に値下げしているようだ)
 九州新幹線の全線開業でJR九州が新八代駅から宮崎への高速バスの運行をスタートさせたことを知っていたので、今回はこれを利用してみた。片道だと9290円。往復で買うと13600円。午前11時4分、博多駅から新幹線の「さくら」号に乗車。始発駅だから自由席でもまずは座れる。博多駅を出たと思っていたら、わずか51分で新八代駅に到着した。新八代駅を駆け下りると、高速バスが待っていた。人吉インター、都城インターなどを経由して宮崎駅に午後2時12分、時刻表通りに到着した。天神スタートの高速バスより1時間は早い。悪くない。
 おまけに宮崎駅でレンタカーをした際、帰りの切符を見せると、レンタカー代まで割安にしてくれた。とここまで書いてきて、なんだか、JR九州の宣伝みたいになった感じだ。
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 普段は宮崎に戻っても、妹がどこそこに連れていってくれるから、車を運転することはほとんどない。だから、たまにハンドルを握ると最初は少し緊張する。まだ新聞社に勤務していた数年前、レンタカーで九州の過疎の集落を取材した時、10年かそこらぶりにハンドルを握った時、オートマに面食らったことを思い出す。熊本のとある役所まで行き、かぎ(キー)を抜こうとしたら抜けない。ナビの画面も消えない。いくらやってもかぎが抜けない。弱り果ててレンタカー会社に携帯から電話をかけた。先方は「パーキングに入ってますか」と聞いてきた。私は「はい、駐車場からかけてます」。「パーキングですね」「はい、大丈夫です。ちゃんとした駐車場です」「おかしいですね。それなら、簡単に抜けるはずですけどね。パーキングですよね」。ここまで会話が進んで、私は相手が意味するのはオートマのPだと理解した。私は理解が早い。それで私の車のオートマはPではなく、ニュートラのNになっていた。シフト時代の昔はニュートラでかぎを抜くことができた(と思っている)からだった。
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 さて、台風2号が宮崎に近づいている中、帰郷するのも、なんだかという感じだが、現時点(28日土曜朝11時)で小雨は降っているものの、大きな台風が近づいているような雰囲気ではない。私は子供のころから台風が大嫌いで、亡き母親によく、雲行きを見ては「台風がくっごたるや?」と聞いていた。肌身で知っている「嵐の前の静けさ」とはどうも異なるような感じだ。願わくば、このまま、すっと通り過ぎて欲しい!
 東日本大震災のことを考えると、複雑な心境にはなるが。
 (写真は上から、JR新八代駅の駅舎。駆け出しの新聞記者時代には人のいなこんな写真を撮っていたら、デスクに怒鳴られたものだ。水不足で干上がったダム上流の故郷の川。実家の窓から見える山をぱちり。天気さえ良ければ、晴れやかな気分になるのだが)

旅行けば魚の香り

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 富山湾に面した魚津での4日間は駆け足で過ぎ去った。いや、沢山食べた。ビールから焼酎、日本酒もいただいた。また太ってしまったが、致し方ない。高リスク、高カロリー、高揚感だ。町中にサウナ付きの温泉もあり、毎夕連れていってもらった。硫黄の匂いのする温泉らしい温泉だった。
 飲食で疲れた胃袋を癒すには水が一番だ。魚津の隣の黒部市の生地(いくじ)地区には至るところに黒部峡谷を源流として、流れ下ってきた伏流水が湧き出る清水を利用した「共同洗い場」があった。ここでは清水は「しみず」ではなく「しょうず」と呼ぶらしい。
 私が訪れたそのうちの一つ「清水庵」(しみずあん)の案内板には、「約三百年前、元禄2年の夏、俳聖松尾芭蕉が越中巡遊の途中、寺の庭にこんこんと湧き出る清らかな水を見て、清水庵と命名した」経緯が書かれていた。水は常時摂氏11度で夏は冷たく、冬は温かいという。背後に望める峡谷の山頂部付近はまだ雪をいただいており、「神秘とロマンの清水」(案内板より)を何度も口に運んだ。
 そういえば、だいぶ以前に富山市に遊んだ時も、川沿いで似たような水飲み場でこんこんと湧き出す清水を味わったことを思い出した。富山は県全体がこのような清水に恵まれているのかもしれない。
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 Mママが帰郷後、よく利用している生地地区にある鮮魚店も一緒にのぞいた。店の人が炭火でカレイとイカを焼いていた。「ガスで焼くとの違い、じっくり焼き上げるから時間は倍もかかる」という。見るからに旨そうだ。水にしろ、魚にしろ、こういうものを普段から口にする地元の人々の幸せを思った。
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  Mママの家は新築間もなく、快適な空間だった。読書好きだけあって、二階の客間にも読み応えのある本が書棚に並んでいた。東京から引っ越しするに際し、200冊ほどは処分せざるを得なかったという。深夜遅くまでのスナック経営から解放されて、少し太ったとか。手料理の腕は相変わらずだ。「那須さん、故郷が一つ増えたと思えばいい。定期的にいらっしゃい」とありがたい言葉をかけていただいた。深く感謝。
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 それはさておき、東京から合流した友人も加わり、土曜日夜はMママの家で楽しく飲食した。Mママの家の真ん前に住むいとこの家族も加わった。この家にRちゃんという小学校1年生のかわいい娘さんがいた。本来、子供好きな性格の私は小学5年生以下の女の子は「お得意様」だ。おそらく向こうも私が自分と同じレベルの頭脳の持ち主と即座に見抜くのだろう。「すずめ」「めだか」「からす」「すずめのこ」「こま」「まめ」「めだかのこ」などとしりとり遊びなどをしていて、すっかり小馬鹿にされ、仲良くなった。これであと、4、5年はお友達になってくれるだろう。これも感謝。
 (写真は上から、「清水の庵」の共同洗い場。こんこんと湧き水が流れていた。香ばしい焼き魚の匂いが漂う鮮魚店。食卓に並んだ刺身の数々。右端はホタルイカ。魚津を去る日、駅に見送りに来てくれたRちゃん。写真を撮られるのを嫌がり、やっとOKしてくれたと思ったら、おすまし顔に)

新幹線車中

 前回の項を書いてから一か月以上が経過した。ブログを更新する気がないわけではなかったが、本来がとても怠惰な性格、そのうちにと思っていたら、こんなに間があいてしまった。まあ、仕事ではないし、義理があるわけでもないので、致し方ない。
 ただ、曲がりなりにも文章を書いて食ってきた身。読む方は毎日「鍛錬」しているとしても、やはり、書く方も「鍛錬」していないと錆びつくのではという危惧を抱いているから、できれば、そう日を置かずして書いていきたいと思っている。
 書きたいことがなかったわけではない。日々生きていれば、それなりに心に浮かぶことはある。今はこのブログは「身辺雑記」を綴る欄としているから、日々の思いを書く格好のスペースだ(ったはずなのに)。
 私は今、新幹線の車中にある。博多駅を午前10時に出て、新大阪経由で富山・魚津に向かっている。魚津に住む長年の知人宅が目指すところだ。知人と言っても、私にとっては大恩ある人だ。長く東京・千駄木でスナックを営んでいたMママ。私が新聞社に就職して東京本社に勤務していた20年余、独り身の私には「母」や「姉」のような存在だった。本社勤務となるたびに、このスナックの周辺にあるアパート・マンションに住んでいた。
 毎年冬になると風邪をひいて寝込む私には本当にありがたい人だった。「ママ、また風邪ひいたみたいだ」と電話を一本入れるだけで、「あいよ。分かったわ。寝てなさい。今、持っていってあげるから」と応じてくれた。そして、ほどなく、市販の風邪薬にお握りとお惣菜、それとなぜか黒砂糖を袋に入れてアパートまで届けてくれた。悪寒と発熱で朦朧とした私がどれだけ感謝したか分かっていただけると思う。東京勤務時代には毎年繰り返された「年中行事」のようなものだった。
 大阪や福岡勤務になると、出張で上京するたびに、スナックの上にあるMママの住居の一室に泊まらせてもらった。Mママ同様、可愛がってもらった旦那さんの位牌に手を合わせ、いつも泥酔したまま就寝させてもらった。
 そのMママが何年になるのだろうか、40年近くなるのだろうか、長年営んできたスナックを友人にバトンタッチしてもらい、昨年、実家のある魚津に「引退」したのだ。私は来月、今度はアメリカを「さるく」ことにしているが、Mママからその前に一度魚津にいらっしゃいと誘われていた。大恩ある人からのお誘いだ。千駄木時代の親しい飲み仲間にも声をかけ、この週末お邪魔することにした次第だ。
 魚津を訪れるのは、Mママの旦那さんの葬儀以来。あれは何年前になるだろう。最近はこうしたことを思い出すのに難儀する。ついこの間のことでもだいぶ昔のことだったりして驚かされる。どちらにしろ、駆け足での葬儀参列だったから、何を食したのかなど記憶にない。
 魚津はきっと酒の肴が素晴らしいだろうな。Mママと会うのも久しぶりだ。今夜も明日の晩も私はまた泥酔するのかしら。ああ、怖い。ううん、全然!

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