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アフリカをさるく

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お知らせ

 私は今は再び福岡市に落ち着き、「さるくは小休止でござる」というタイトルのブログを書いています。
 サイトのアドレスは http://www.kankanbou.com/saruku/ です。
 お知らせまで(2013年夏)。

いよいよアメリカへ

 アフリカをさるく旅から帰国して半年。明日21日からアメリカへの旅に出る。アフリカのフがメになるだけの旅。将棋名人戦は3勝3敗で雌雄を決する最終局となっているが、将棋のように「歩」(フ)が「と金」となり、さらに芽を出す旅であって欲しいと願う。
 と言葉遊びはほどほどにして、準備は整った。私にとっては1週間程度の小旅行をのぞけば、1972年の留学以来の本格的なアメリカ滞在となる。当時の為替レートはいくらであったか、さすがにほぼ40年前のことだから記憶にない。ネットで調べる限り、当時は1ドル260円から300円の間だったかと思われる。現在はご承知のように1ドル80円程度で推移していることを考えれば、円高ドル安の「恩恵」に浴する旅となる。だから、定年前に早期退職し、旅に出るわけでは無論ないが。
 アフリカでは頼みのクレジットカードが使えないケースが頻発して途方に暮れたこともあった。今回は米ドルをある程度手元に置いており、また、念のため、米シティバンクにも口座を開設し、キャッシングができるカードも作成した。
 今回は成田空港からロサンゼルスに直行便で飛ぶ。参考までに大手旅行店で購入した片道チケットの代金は65,760円。関空からアフリカ・ナイジェリアまでの片道チケット代金は134,750円だったから、気分の上では「安い!」と思わないこともない。
 ロス訪問は初めて。先ほどNHKのBS1で「世界の天気予報」をやっていたが、ロスは向こう一週間概ね晴れの天気で暑そうな印象だった。
 土地勘もないから、ネットで検索して、安そうな、いや額面通りでは、今浅草周辺で投宿しているホテルと比べてもより安いホテルの部屋を予約した。一泊57ドル(約4,600円)。果たしてどんなホテルが待っているのか。
 ただ一つきがかりなのは、やはり、荷物が多いこと。短期間の旅だったら、キャリーバッグにナップザックで十分だが、旅の参考資料や衣服をある程度持参するとなるとスーツケースがずっしりと重い。旅の途中でゴルフをするため、当初は愛用のゴルフバッグも持って行くつもりだったが、これはさすがにあきらめた。
 アメリカはアフリカ同様広大な大陸だ。東海岸とロスのある西海岸は3時間の時差がある。日本とロスの時差は夏時間の今は16時間。成田を21日午後7時15分に立っても、この時差があるから、ロス着は同じ21日の午後1時半ごろ。ずいぶん「得」をする感覚だが、帰国時に「つけ」を払わされるから、差し引きゼロだ。
                 ◇
 今回の旅も「アメリカをさるく」と称してブログにします。時には「和製英語」は承知の上で英語でもアップするつもりです。興味のある方はご覧くださいませ。ただし、英語はネイティブのチェックが入っておらず、英語学習者の頭脳には悪影響を及ぼす恐れのある粗製品です。「読み過ぎ」にご注意ください。

「落語をやれ!」

 連日の「飲みかた」で少々肝臓が疲れ気味だ。いや、疲れている。それは自分の体が一番よく知っている。第一、ビールも焼酎の水割りもあまり進まない。
 今日はなんだか一日ぼけっとしていた。読書もあまり進まない。困ったものだ。気晴らしに散歩に出かけた。宿にしているのは東京でも比較的「土地勘」のある浅草近辺。少し歩くと浅草寺界隈に出る。歩いていたら、浅草演芸ホールが見えてきた。東京に住んでいた時はたまにのぞくこともあった。しばらく日本の伝統話芸にご無沙汰するわけだから、入ってみた。木戸銭2500円。平日の午後だから空いているかと思いきや、結構、客が入っている。ほとんどが私の世代よりもっと上の高齢者だ。話している会話から察すると、寄席に初めて足を運んだ客も多いようだ。高齢化社会本格到来の現れか。
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 テレビではあまりというか全然見かけない落語家が次々に高座に上がる。前座ならば致し方ない。それでも結構笑える。名前は知らないが、ベテランと思われる落語家が出てきた。どうも緊張感のない話が続く。というか、一向に落語に入らず、枕が延々と続く。たいして面白くもない。時々こういう噺家(はなしか)に出くわす。世間話だけの枕で落語を語らない落語家が。この日は客席の端から初老の男性客が「落語をやれ!」と怒声を飛ばした。その落語家、慌てず騒がず、「先日、電車の中で携帯電話で話し続け、ペースメーカーをつけたご老人がいたことから、注意を受けていた若者を見かけましたよ。いけないことですね。注意を受ける前にちゃんとやることをしなくては。今、お客さんから注意を受けた私も同罪だ」と自虐ネタに仕立てていた。なかなか手際の良い「危機脱出」と思ったが、このような怒声をこれまでも結構浴びて慣れっこになっているのかもしれない。
 中入りになったので、寄席を出て、蕎麦屋に入った。店員さんは愛想良かったが、肝心の蕎麦が心なしか水っぽくて決してうまいとは言えなかった。福岡で常連にしていた蕎麦屋の味と比較する気にもなれない。それで値段は格段に高い。東京にいるのだから、「べらぼう」に高いと表現したいほどだ。先夜食べたとんかつも味はともかく、値段がちょっと・・・。福岡で最後に常連になっていた焼き鳥屋ではキープの焼酎の水割りでお腹一杯、軽く1時間余過ごせる料金だった。東京は高い!
 高いといえば、スカイツリーも着々建設が進んでいるようだ。と落語のような展開になった。あと一つ、今回の東京で気づいたこと。悪名高い朝夕の電車のラッシュが少し緩和されているような気がした。東日本大震災の影響から、時差出勤や勤務形態の変化でもあるのだろうか。ライフスタイルそのものが根底から見直されているのではないだろうが。
 とここまでパソコンに向かっていて、何だか、のどが渇いてきた。今日は一日ノーアルコールデイとしようと思っていたが、缶ビールぐらいならいいだろう。乾き物も。私は自分に情けないほど優しい男だ。
 (写真は、浅草寺雷門前の交差点風景。この写真では高層さが伝わってこないが、右端に見えるのが例のスカイツリー。来年5月の完成を目指し建設が進む)

「飲みかた」

 東京に戻った週末は米国大使館で入国ビザの手続きを済ませた。段取りが悪いので今頃ようやくだ。指定された時刻の30分前の午前9時に虎ノ門の米国大使館に着いた時は、もうすでに長蛇の列ができていた。私の前に並んでいた若い女性は毎年のようにビザ取得で足を運んでおり、夏休みごろはもっと長い列ができると話していた。セキュリティーチェックを受け大使館の中に。両手の指紋を採取され、面接官との面談が問題なく終わり、預けたパスポートがビザとともに郵送されるのに一週間程度かかると言われ、大使館を後にしたのは正午を過ぎていた。
 今週末には出発するつもりだったが、パスポートが戻ってこないことにはどうしようもない。まあ、特段急ぐ旅でもない。ホテルの部屋のベッドに寝転んで読書に励もう。とはいえ、かねてから予定していた旧友、先輩たちとの飲み会もいくつか入っている。宮崎の言葉だと「飲みかた」という。「今晩も飲みかたがあるわ」という感じだ。
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 気の合う高校時代の同窓とは前にも書いたことがあるが、毎年6月、この時期に集まっている。今年は11人が集まった。地元の西都(さいと)弁丸出しで癒される。2時間、飲み放題の触れ込みだったが、出てきた焼酎が甲類だったのには参った。我々焼酎の本場で育った者には香りのある乙類でないと。
 「なす君、アメリカになんしに行くとや。あぶねぇとこには行きなんなよ。無事に帰ってきないよ」「こみや、お前は少し黙っとけ。さっきからお前の声しか聞こえんが。ちっとは、他のもんにもしゃべらせんか」「わかっちょっちゃが」「むつお!」「なんか、こみや」「呼んだだけやが」「わらぁ、まこちてーげにせーよ」
 こんな感じで僕らにとっては割と意味のあるやり取りが続いた。これからも毎年、みんなが元気に顔を合わせられることを願う。面と向かっては誰もこんなことは言いもしないが。
 上記の集まりの翌日は高校の一年先輩の女性二人とそのうちの一人の旦那さんが送別会を催してくれた。汐留の高層ビルの47階。田舎者の私は47階から見える都会の眺めに目を見張った。都会育ちのご主人もおられるのでさすがに会話は「標準語」だったが、何かの拍子で私が「道」と言ったら、ご主人が「未知」と解されて、少し困惑された。それから「宮崎県出身者には日本語特有のアクセントが困難」という話題になり、ご主人曰く、「例えばJRのスイカ。これをあの果物のスイカと同じ発音することが私には信じられない」。恥ずかしながら、私はどっちでもOK。初めからアクセントで区別するという発想さえない。
 今回の私のアメリカの旅では言語表現に関する私なりの思いを時に記することになるかかと思う。日本語のアクセントを解することのできない「身の上」であることはご容赦いただいて。
 (写真は、高校時代の同級生のささやかな宴。私以外は皆いい顔立ちの仲間だ)

津波被災地訪問

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 本日、岩手県・三陸海岸の東日本大震災被災地を訪れた。大きな津波に見舞われた釜石、大槌、山田、宮古の市町だ。アメリカの旅を前に一度は被災地に足を運んでおかなくてはならないと考えていた。前にこのブログでも紹介した、釜石市で旅館を営んでいたSさんにこの旨を告げると、喜んで案内いたしましょうと言われていた。
 Sさんと会うのはほぼ20年ぶり。66歳になるというSさんは髪の毛が白くなった以外は当時の風貌のままで予想以上にお元気な様子。まずは一安心。
 盛岡から釜石市の被災地へ向かうまでは花巻市や遠野市の緑豊かな田園地帯を通った。津波の深刻な被災地に向かっている感覚はない。しかし、釜石市中心部に入ると、様相は文字通り一変した。Sさんが営んでいた旅館も建物自体は残っていたが、一階部分は津波の爪痕がひどく言葉を失った。居間だった部屋の書棚にはSさんがライフワークとしている三陸海岸の植物調査に役立てる参考書物が何冊か、泥をかぶったまま残っていた。周辺の住宅やビルも建物自体は残っているのだが、とても住める状況ではない。
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  鵜住居(うのすまい)と呼ばれる地区は何百軒だろうか、家々が根こそぎ持っていかれていた。防潮堤も何の役に立たなかったのが分かる。「津波の避難所に定められていた場所に逃げていても、津波でさらわれていった人たちも大勢いるんですよ。『想定外』の一言で片づけられる問題ではないと思います」とSさんは語る。
 隣接する大槌町、山田町の被災地はさらに被害がすさまじかった。「絨毯爆撃」という表現が頭に浮かんだほどだ。鉄筋コンクリートのビルや比較的最近建てられたと思われる二階建ての家は残っているのもあったが、ほぼ住宅地ごと津波にごそっと持っていかれた印象だ。残った家々の壁面には所有者が書いたと思われる「解体OK」との文字が見えた。
 町内を走る道路はがれきの処理が終わって車が通行できるようになっていたが、がれきが散乱していた津波襲来直後は被災した地元の住民には「生き地獄」と映ったことだろう。今もそうかもしれない。Sさんが言う。「もうすぐ3か月になりますが、今でも、自分は夢を見ているのではと思うことがよくあります。まだ信じられないんですよね」と。
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 Sさんは現在、盛岡市内で避難生活を続けており、釜石市内の仮設住宅への入居の順番待ちの日々だ。来月は県外で植物研究の集まりがあり、その集まりへの参加が楽しみと語っておられた。このような未曽有の津波の被害に遭っても、くじけることも悲嘆に暮れることもなく、淡々とライフワークを続けることに静かな闘志を燃やし続けておられる。
 「私は思うんですよね。原発にしろ、白砂青松の砂浜をコンクリートで埋め立て人工物を建ててきた文明が自然のしっぺ返しに遭ったのが、今回の大震災ではないかと。我々は自然に対してもっと謙虚にならないといけないのでは」
 駆け足で被災地を見た後、盛岡駅から東北新幹線はやて号に乗り東京に戻った。
 (写真は上から、釜石市中心部の津波の被災住宅。鵜住居地区はほぼ壊滅的状況だった。大槌町の津波被害地区。絨毯爆撃という表現が頭に浮かんだほどのすさまじさだった)

上京へ

 九州・福岡で過ごして5か月。この欄でもう何回か書いているのではないかという気がするが、来週末には次の「さるく」旅に出ているはずだ。今回の行く先はアメリカ。本来なら、もう旅の途にあって良かったのだが、さすがに東日本大震災を見てはそうはたやすく動けなかった。明日ようやく重い腰を上げ、上京する。別に上京する必然的理由はないのだが、なにしろ、アメリカの入国ビザをまだ取得していない。東京の米大使館でビザを取ろうと考えている。
 福岡市の先輩宅で過ごした日々は快適だった。近所の焼き鳥屋さんやカラオケスナックなど顔馴染みになった店もある。福岡市はどこでも本当に過ごしやすい町だ。全国津々浦々、ここほど「よそ者」を快く受け入れてくれる町はないのでは、と個人的には思う。
 アメリカの旅も前回のアフリカ同様、特段のあてもつてもない気ままな旅。5か月前後程度の旅になるかと考えてはいるが、実際にどれぐらいの長さの旅になるか分からない。あまり居心地が良くなく、お金も予想以上にかかるようだったら、尻尾を巻いて帰途に就くつもりだ。どちらにせよ、旅支度はなるべく「軽装」にするに越したことはない。着るものも寒さを見越したコートなど持参したいのは山々だが、書物や資料など携行したいものは多々あり、そういうわけにもいかない。思えば、アフリカの旅では冬着の心配は無用だった。
 アメリカでお世話になるかもしれない人々への簡単な「手土産」もできれば携行したい。できるだけ安く上がり、それでも現地の人々に喜ばれるものがあれば理想だ。アフリカでは貧しい子供たちを念頭に安価な文房具品を大量に持って行き、取材先で知り合った子供たちに喜んでもらった。アメリカ用には素朴な味わいのセンスやタオル、小物入れを先日、大量とはいかないが、それなりに購入した。
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 手にする荷物はスーツケースにキャリーバッグ、ナップザック。これで手一杯になる。アフリカの旅では幸運にも、ケニア・ナイロビに住む友人の家をベースキャンプにできたので、スーツケースを友人宅に置いて、比較的身軽に旅をすることができたが、今度はそうはいかない。ちょっと気が重い。アメリカは37年前、(本当に)紅顔の美少年だった20歳の学生のころ、1年間南部ジョージア州の小さな大学に留学したぐらいだから、物心両面で甚だ心もとない。それではなぜ行くの?と問われるかもしれないが、その辺りはおいおいブログで記していきたい。
 先輩宅で付き合ってくれた猫のことを考えると、少し心が痛む。実によく懐いてくれた。こいつは本当に私が「同類」だと勘違いしているのではと思ったことは一度や二度ではない。まあ、しかし、日本にしばしお別れするに当たり、心を痛めるのが、見目麗しきホモサピエンスではなく、同じ哺乳類とはいえ、猫であるとは!。しかもオスとは!たはっ!
 (写真は、私が寝床で読書にいそしんでいると、招かれもしないのに勝手にやってきて、私の左手の上で添い寝する猫君。お、重いんだけど!)

台風一過

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 前項で書いた台風は願い通り、わが故郷はすっと通り過ぎてくれた。
 例によって、義兄の家も訪れ、またしても、猪肉をご馳走になった。いや、そのうまいこと。私は個人的には猪肉はステーキよりもうまい、世の中で最もうまい肉だと思っている。時節柄、タケノコが旬であり、タケノコの煮込みも食べた。手前味噌だが、長姉の作るタケノコの煮込みは最高に美味。ご飯が何杯も欲しくなるうまさだ。
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 前にもこのブログで書いたことがあり、また、書きたくはないのだが、帰郷はうれしくほっとする思いとともに、果たしていつまでこの故郷が存在し続けることができるのだろうかという悲しみにまといつかれる旅となる。私は昔から、都市部や町に生まれ育った友人たちをうらやましく思ってきた。今も。彼らの便利な暮らしに憧れたわけでも、自分の田舎育ちを恥ずかしく思ったわけでもない。ただ単に年々寂しくなっていく、小さくなっていく故郷が哀れに思えてならないからだ。都市部の人たちはこういう悲しみに胸を打たれることはないのではと思う。
 数年前に「集落点描」を取材、刊行したのも、九州の似たような集落を歩き、エールを送りたかったからだ。わが故郷に酷似した集落で雄々しく生きる人々に会った時はとても心強く思った。彼らとはまたいつか再会したいと願っている。
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 山間僻地に住む人たちはそういう暮らしをせざるを得なかった歴史的経緯があるのだろう。現代の今となっては、皆が都市部、町に出てきて、快適な暮らしを享受すればいいではないかという考え方もあることは承知している。でも、そうなれば、誰が山間部の田畑、山を守るのか。都市部の暮らしを支える水源地は荒れ放題となってしまう。第一、山紫水明の国土はどうなるのだ。
 話が湿っぽくなってしまった。ただ、故郷に関して自分の偽らざる気持ちを記せば、こういうことになる。
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 今日は西都市の隣の新富町の蕎麦屋「まどころ」で、高校時代に英語を習った恩師と同級生の女性2人の総勢4人で食事を楽しんだ。同級生とはずいぶん久しぶりの再会だった。開口一番「あら、那須君、やせたわね」と言われた。実は私、楽な日々を送っているせいで、近年では一番太っている。「やせた」と言われると、少しうれしい反面、昔はすごいブタ太りしていたことが分かり、それはそれで複雑な心境になるが、彼女たちと話していて元気をもらった。メールのやりとりで事前に少しは知っていたのだが、同級生の一人Aさんは点訳ボランティアのベテラン。拙著(翻訳)「二人の運命は二度変わる」も親切に点訳していただいた。彼女が宮崎県内で点訳の大切さ、楽しさを広める指導的立場にあることも今度初めて知った。嘆いてばかりはいられない。
 (写真は上から、またもや猪肉。このタケノコも美味だった。故郷の銀鏡神社にお参り。蕎麦屋で記念撮影。同級生の女性は当時のままの魅力を維持。恩師のS先生は私と変わらない若々しさ。そういえば、いつぞやの同窓会で私は恩師の一人に間違われた)

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